アジアンどっとコム・マレーシア_クアラルンプール

マレーシアのマレー人は、元来フィリピン、インドネシアとともに台湾から南下したとされるオーストロネシア語族に含まれます。現在でもマレーシアとインドネシアはマレー語を話しています。敢えて人工的に作られたものが今日のインドネシア語となっていて90%はマレーシア語と共通しています。フィリピンでも南部のセブ語はマレー系の言語です。ですから、広くオーストロネシア語族と言った場合、台湾の高砂族、ベトナムのチャム族なども含まれ、今日の国境線はこうした民族の分布とはかけ離れた一面があることを知っておく必要があります。古代のマレーシアは明確な場所が特定できる資料がないために歴史的な詳細は明らかでないことが多いのですが、紀元前3世紀には鉄器の使用が確認されていて、紀元前2世紀に既にモンスーンの季節風を利用してインドや中国との海上の往来があったことが知られています。やがて主にマラッカ海峡を利用する海上交易の要所として、3世紀のシュリーヴィジャヤ(室利仏逝)や7世紀の赤土国といった海上交易国家が生まれますが、その資料は中国やインドの古文書に依っています。例えばシュリーヴィジャヤに関しては唐の僧侶義浄が書き残したり、「新唐書」などに記録されています。

こうした民族ごとに異なった社会を築いた結果、民族の住み分けは教育にも影響を与えました。マレー人は伝統に則ってイスラーム寄宿学校でジャウィ文字を使いイスラム教を教えていたが、1903年にジャウィに代わってローマ字が使われました。その一方で中国人は伝統的な儒教教育を主に広東語、復建語、朝州語で教えていましたが、1912年に北京語を使うことが一般化されます。また、インド人は学校ではタミル語を使用し、その教科書もインドから取り寄せておりました。このような植民地の状況下で学校はマレーシアのことは教えずに、当時都市部では教育に熱心だった中国人やインド人はその子弟を英語学校に通わせたため、後のマレーシアの独立に際してこうしたエリートたちが人種を超えて英語で議論を重ねることになります。現在でもマレーシアの人々は2カ国語以上を話し、そのことがこの国の国際競争力を高めています。

1969年マレーシアのスランゴール州の選挙の結果、与野党の議席が伯仲し、中国系住民とマレー系住民が衝突し数百名の死者が出たため再び非常事態宣言しました(五月十三日事件)。貧困世帯の75%がマレー人であるというマレーシア社会の中で、商業的な成功を収めてその利益を擁護する中国人との衝突です。これを受けて1970年にラーマン首相は辞任し、フンセンが引き継ぎ、この間、マレーシアに住む中国人の30万人とインド人の50万人の市民権が問題となり、これに対してマレーシア政府はブミプトラと呼ばれるマレー人優遇政策を推し進めます。

この政策の内容は「イスラム教の信仰」、「国王並びに国家の忠誠」、「憲法の擁護(マレー人に対する議論の禁止)」等です。経済政策として貧困の追放と格差社会の構造再編を目指し、マレー人が貧困世帯に集中しているのは彼らが主に農業に従事していたことが原因と考えられたため、農作物の生産性を高め、農業以外の産業に関してもマレー人の株式保有比率を30%にまで引き上げることとしました。この結果、企業主の名義だけマレー人とした中国人経営の企業が増えたと言われています。しかしその一方で1970年代から繊維、電機、半導体などの労働集約型の海外の企業がマレーシアに進出したため、1980年までGDP成長率は7%から8%を維持し、貧困層は急激に減少しました。

1963年のマレーシア憲法の中にマレー人とは「マレー語を話し、イスラムを信仰し、マレーの慣習に従う人々」と規定しています。そのマレー人を優遇する目的で作られたのがブミプトラ政策です。ですから、マレーシアを理解しようと思えばイスラム教を知っておかなければなりません。

イスラム教の始祖ムハンマドは、570年にサウジアラビアのメッカで生まれ、40歳のとき神の啓示を受け布教を始めます。彼自身は予言者に過ぎず、その後半生はほとんど異教徒との戦いに明け暮れた軍の指導者です。また、彼の妻は12人以上いたと言われ、最愛の妻は9歳で彼に嫁いでいます。その他にも異教徒の地を征服した後は、女、子供は奴隷身分としたとされ、彼自身も奴隷を所有していました。要するにムハンマド自身は私たちが想像する宗教家のイメージとは大きく異ります。そんな彼が受けた神の啓示を口伝えに伝承し一冊の本にまとめたのがコーランです。マレーシアをはじめとした世界のイスラーム共同体はコーランそのものが神の言葉であるため、その多くはこのイスラム法をそれぞれの国家の憲法に援用しています。例外としてトルコなどはイスラム共同体で在りながらイスラム法を一切廃止していますし、他の国でも柔軟に西洋の近代法と折り合いをつけています。逆に言えばコーランの内容を知ることでこれらの国々の考え方が理解できると言え、こうしたイスラム教徒は現在世界の5分の1に当たる14億人ですが、2020年までに世界の3分の1にまで拡大すると予測されています。

これはコーランの中にある記述で、ムハンマドはユダヤ教のモーゼ、キリスト教のキリストに続く同じ神の予言者であるためイスラム教にも「最期の審判」があります。また、イスラム教は異教徒との結婚を禁じていますが、同じ理由でユダヤ教徒とキリスト教徒との結婚は可能です。しかしイスラム教は一夫多妻を認めていますので、このことは実際の婚姻には障害となるでしょう。これはムハンマド自身が異教徒との激しい戦闘に明け暮れ、その結果、孤児や未亡人が溢れたためこうした多重婚はその救済策だったと言われています。イスラム教の基本は次の「五行六信」です。
これらは一つの国家というより、当時の海上を支配していたいくつかの港市国家から成り立っていました。10世紀になると同じ地域に三仏斉が興りますが、中国へ送った朝貢使節はそれぞれ異なる港市国家がいずれも三仏斉を名乗っていたことが知られています。当時のこの地域の宗教はインドから伝わったバラモン教、ヒンドゥー教の他に中国から伝わったと見られる大乗仏教があり、航海安全を観音菩薩に祈っていました。しかし13世紀にマラッカ海峡に立ち寄ったマルコ・ポーロは「東方見聞録」の中でこの地域がイスラム商人の影響でイスラム化されていたと伝えています。古く8世紀にはイスラムが居住しており、10世紀にはアラブ商人の活躍で多くのイスラム陶器がこの地を通り、九州の太宰府まで届いていました。13世紀の末にはシュリーヴィジャヤからマジャパヒト王国の支配へと移りますが、これが最期のヒンドゥー教王国となります。1396年にインドネシアのスマトラ島に建国されたマラッカ王国は後にこのマジャパヒト王国に追われてジョホールからマラッカに遷都します。1405年には明の鄭和の遠征隊がマラッカを訪れ、2万7千人の乗組員が交易のためマラッカに倉庫をつくり、ここを交易の拠点とします。この後マラッカ国王がイスラムに改宗したためマラッカにイスラム王国が誕生します。また、同じ頃、マラッカ王国は琉球(現在の沖縄県)とも緊密な関係を築き、1446年に現在のタイ(シャム)のパタニまで勢力を伸ばしシャム軍を退けています。マラッカ王国の交易網は東南アジアの島々に広がり諸般の王をイスラムに改宗させています。このように海域を中心にできた共同世界をムラユ世界と呼び、そこでは会話はマレー語で文字はアラビア文字からできた「ジャウィ」を使用しました。
1521年フィリピンにはマゼラン艦隊が到達します。一方マレーシアでは既に1509年ポルトガル人がマラッカ王国に来訪し、1511年にはポルトガルの16隻の艦隊によって占領された後、堅固な要塞が築かれました。尚、日本にも1543年ポルトガル人の一行が、種子島に漂着し鉄砲を伝えています。1641年にはオランダがマラッカを再び占領。1786年にはイギリスがペナン島を拠点に砦を築き、1842年イギリスはポルトガルから政治的にマラッカを譲り受け、同時にシンガポールを支配します。1840年にはマレーシアの錫を奪い取る目的で採掘し、そのために多くの中国人労働者がマレー半島部に定住するようになりました。1841年さらにイギリスはボルネオ島のサクラワを得て、1881年にボルネオのサバ州をイギリスの保護領とします。1896年イギリス領マレー連邦が成立し、行政の中心がクアラルンプールへ移動します。1914年マレー連邦にジョホール、サクワラ、サバ州にシャムから譲り受けたケダ州など北マレーシアを加え、現在のマレーシアの根拠が形成されました。
第二次大戦前の1940年に既に現代のマレーシアに見られる民族ごとに政治基盤が異なる「列柱社会」が出来ています。この時点でマレーシアの人口はマレー人と中国人がほぼ同数で全体の90%を占め、インド人が約1割であり、マレー人は沿岸部や農村で昔ながらの生活を送り、中国人は錫鉱山や都市部の商業に進出しており、イギリス人によって強制的に連行されて来たインド人はプランテーション化したゴム農園で働かされていました。また、交易の中心となったシンガポールに於いては1911年に中国人だけで72%に達しており、その多くが男性移民で占められていたため売春の需要が高まり、公娼館がつくられ、島原半島の寒村から「からゆきさん」と呼ばれる日本の女性たちが海を渡って行きました。

15世紀から始まるアジアを発見したとされるヨーロッパ諸国の大航海時代とは、結局アジアで暮らす人々の暮らしを奪い、産出される交易品を略奪した挙げ句、こうしてヨーロッパに集めた世界の富で今日の西欧の近代化を達成する礎としたに過ぎません。古来からイスラム商人はインドや中国と交易を行っていた事実を考えれば、こうしたヨーロッパ人の「発見」は世界の歴史をミスリードするものであるため、今日では既存の世界の航路にヨーロッパからインドまでのルートが加わっただけとしているようです。

1941年12月8日、日本軍はアメリカの真珠湾攻撃の1時間前にマレー半島に上陸。1942年2月にはシンガポールを占領し6月にはマレーシアは日本軍の占領統治下に置かれます。この日本軍の目的はインドネシアで産出されていた石油資源の確保にあり、インドネシアと共にマラッカ海峡を支配していたマレーシアは強力に「日本化」が進められました。特に当時の日本の憲兵隊による様々な政治的強制や拷問は今日までマレーシア国内で語り継がれています。また、日本軍はマレーシア経済を一方的に統制したため、マレーシア国内の食料と生活物資の不足を招き、その結果多くの人々が犠牲になりました。

まず日本軍はタイ政府がイギリスとアメリカに対して宣戦布告を行った見返りにマレーシアの北部4州をタイに与えます。1931年から続いている日中戦争を口実に抗日運動を繰り返すマレーシアの中国人に対しては強硬に対応し、結果、数万人を虐殺した挙げ句、中国人の資産から500万ドルを献納させています。その一方でマレー人とインド人は優遇し、イギリス軍に捕えられていたマレー人政治犯を解放し、彼らに義勇軍を組織させるなどしてマレー人民族主義を鼓舞しました。結果的にイギリスが民族を分断して統治を行った政策を逆に利用したものと考えられています。
その他、タイとビルマを繋ぐ鉄道の建設に着工し、その労働力として連合軍捕虜6万人とマレーシアの国内から8万人を連行しこの半数以上が重労働と栄養不足により死んでいます。また、インド人に対してはインド国民軍を組織させて1944年のビルマ(現ミャンマー)のインパール作戦に参加させました。このように日本軍はイギリス以上の過酷な弾圧と搾取を行ったため、戦争の末期にはマレー共産党を筆頭に中国人が組織したマラヤ人民抗日軍には優遇されていたマレー人たちも参加するようになります。

日本の敗戦後の1945年9月にはイギリスが再びマレーシアに帰り、イギリスの手により現地で日本の敗戦処理が行われました。1946年に新しくマレー連合を発足させますが戦時中マレー人たちが得た特権を失うことへ反発し、マレー人の政治的な権利を強化させたマレーシア連邦が1948年に成立しました。この市民権条項の中で「マレー人とは、マレー語を話し、イスラムを信仰し、マレーの慣習に従う人々」と規定しています。これに対して革命を掲げるマレー共産党とそれを支持する中国人が対立し、1948年マレーシア植民地政府は非常事態宣言を出し、多くの中国人を中国へ強制送還し、それ以降、共産党組織は非合法化されました。1952年にマレー系のUMNOと中国系のMCAが政治同盟を結び、マレーシアの独立を議会で可決し、急速な経済的な発展に伴い生活も改善したため、1960年にようやく非常事態宣言は解除されます。

マレーシア連邦の独立は1957年8月31日です。前期のUMNOとMCAにインド系のMICを加えた与党体制をイギリス政府が承認し、現在に至っています。初代のラーマン首相はシンガポールとボルネオ島北部を加えた新しいマレーシア連邦を構想し発表します。1963年にシンガポールの中国系住民が経済的な権益を奪われることに不満を訴え、35人の死者を出す人種対立へと発展したため、1965年にこの中国系住民が7割を超えるシンガポールを併合することを断念し、またボルネオ島のブルネイを除くサバ州、サラワク州を加えた13州から成る現在のマレーシアが成立しました。ボルネオ島のブルネイは従来のイスラム王国が支配し、石油と天然ガスの輸出により経済的にも潤っていたためイギリスの直轄領として残り、1984年になってようやくマレーシアが国連に提訴し、その決議を受け独立しました。

1981年にマハティールが首相になり政権を握ります。マハティールはさらにブミプトラ政策を強力に推し進め、ルック・イースト政策のもと、日本や韓国に学ぶことを訴え、これまで西欧を目指した国づくりからの転換を図ります。また、国内にいる国王たちの政治的特権が経済活動に及ばないように縮小し、自動車、製鉄、セメントなどの重工業化を外資に頼って推進したため、結果として主に日本や韓国の直接投資を招きました。1991年には「ワワサン2020」を発表し、国外に向けマレーシアは2020年までに先進国となりマレーシア民族が一つとなることを宣言します。マハティール首相は日本に対してアジアのリーダーシップを期待すると発言するなど大変な親日家と知られており、実際に私たちがマレーシアに行くと日本的な勤勉さをその社会に見ることができます。結局、マハティールは22年間首相を勤め、在任中は政敵を罷免、逮捕するなど独裁的な強権体制を敷きましたが、最期はアブドラ・バダウィに引き継ぎ、現在はナジブ・ラザクが首相となっています。

現在に於いてもマレーシアは日本をはじめとする海外企業を積極的に誘致しており、国内の工業化は加速されています。また植民地時代から天然ゴム、木材、錫などの資源国でもあります。プミプトラ政策の施行後も経済は中国資本に牛耳られていて、貧困者はマレー人に多いという民族間の格差は変わらないため、この政策は同じマレー人同士の中に大きな格差を作り出したと言われています。

イスラム教徒は以下のことを行います。
(アッラーの神が唯一であることを信じるという告白)
(夜明け・正午・午後・日没・夜間)
(生活費を除く年収の2.5%を貧しい人々に支払う)
貧しさを体験するために1年の内の一ヶ月間、日の出から日没まで断食しなければなりません。この間、喫煙はおろか性行為も禁じられます。
イスラム教徒は一生のうち一度はサウジアラビアのメッカへ巡礼し、その日はイスラム暦の10日間が決められています。
イスラム教徒は以下のことを信じます。
(「モーゼ五書」「詩編」「福音書」)
(モーゼ、キリスト、ムハンマド)
(「復活の日」に神の審判を受けなければなりません)
(今、私たちの前にある現実は神が望んだ結果であり、その意志に従うこと)
この他にもコーランには食事、結婚、遺産相続など生活の細部まで規定しているため、確かに憲法にも成りうる側面を持っています。ですから、あなたが彼らに興味を持ち、彼らとスムーズな交際をはかりたいと願うのでしたら、イスラム教を学ぶことが近道とも言えるのです。また欧米社会に比べイスラム共同体は治安が良いと言われるのもコーランの中で犯罪に対する刑罰まで規定していることと無関係ではありません。その一方でイスラム共同体が、コーランで本来兄弟と定義しているユダヤ人やヨーロッパ人と互いに厳しく対立している原因は、過去の歴史にその原因があります。

この他にイスラム共同体には「イスラム暦」があります。日本の旧暦と同様の太陰暦を使っていますが、私たちの太陰暦は1年が354日となるために季節がズレたりしないようにうるう年で太陽暦に一致させています。一方、イスラム暦は純粋に太陰暦だけを使用しますので年間11日ずつずれ、33年間で丁度1年ずれて元に戻ります。つまりイスラム共同体のラマダーン(断食)はイスラム(ヒジュラ)暦の9月に当たりますが、その季節は冬になったり夏だったりします。この他にもイギリス連邦の一員として太陽暦、中国住民のための旧暦を併用しますから、マレーシアには3種類の暦とそれぞれの祝日が存在します。結局、互いの民族の生活には干渉しない一方で、異なる民族がお互いの生活を補い合っているようです。

前述の通り、本来シンガポールはマレーシア連邦に加入するはずでしたが、マレー人優遇政策を嫌ったシンガポールに住む中国人の暴動で連邦から追放された形となりました。現在のシンガポールは中国人が主導する事実上一党独裁体制でマレーシアにも勝る強権的都市国家です。大戦中にシンガポールの中国人は日本軍に対して徹底抗戦を貫き、日本軍に数千人から2万人の中国系住民が殺されたために現在でも反日感情は大変根深いと言えます。その一方でマレーシアは日本軍がマレー人を優遇したことで独立の足掛かりを得ているために大変親日的です。そんなシンガポールが今年、一人当たりのGDPが35,000ドルを超え日本を追い越したことは私たちに衝撃を与えました。シンガポールはマレーシアと同様にイギリス連邦であり、この両国は一見感情的な対立が絶えないようでありながらも協力関係を築いています。経済的にはマレーシアの名目GDP総額が2,214億ドルで一人当たりのGDPは8千ドル(約80万円)であるのに対して、シンガポールの名目GDP総額は1,819億ドル、一人当たりのGDPは39,000ドル(約390万円)と現在アジアでトップの先進国です。(日本の一人当たりのGDPは340万円です。)
この両国が補完関係にあることで特に効果を挙げているのが観光産業です。マレーシアの外国人観光客は年間で2,088万人でその内日本人観光客が37万人(2007年度)、シンガポールの外国人観光客は年間で800万人でその内日本人観光客が59万人です。ちなみに日本の外国人観光客はほぽシンガポールと同じ833万人ですが、シンガポールの国土の面積は東京の23区程度です。このマレーシアのクアラルンプールとシンガポールはマレー鉄道で8時間で行き来でき、料金も寝台で1,200円程度です。さらにマレーシアに進出している日本企業は1,427社、日本人滞在者は9,330人、一方シンガポールは日本企業が2,900社、日本人滞在者は2万3,583人に上ります(2008年)。つまりマレー半島だけで日本企業は4,000社を超えている訳で、さらにこれを日本企業1,300社、日本人観光客が125万人のタイと比べると、マレーシアとシンガポールの2国は日本人にとって観光以上にむしろビジネスの環境が整っていると言えるでしょう。
以上の通りマレーシアはビジネスに於いて非常に日本企業の活動が活発ですが、他のアジア地域と比べると国際結婚の数は低く留まっています。親日国とは言えイスラム共同体であるためにやはり異教徒である私たちとの個人間の交流は難しいようです。そうは言っても日本の国費(税金)で賄っている文化交流、留学生の交流などは非常に盛んで概して国家間は良好です。
気をつけるべきなのは、例え彼らの平均年収が80万円程度だとしてもマレーシアの物価が3分の1以下ですから、生活のレベルが私たちよりも劣る訳ではありません。治安も良く教育水準も大変に高く、タイの私立大学生がマレーシアに留学しているのを良く見かけます。その上イスラーム共同体の中でもマレーシアは最も成功した国家の一つで高いプライドを持っています。かつて、マハティールは「マレージレンマ」という本の中でマレーシアは国内に民族問題を抱えているため国家の運営が極めて難しいと訴えましたが、こうした今日の成功はマレーシアが多民族国家であったことと無関係では有りません。具体的にはマレーシアはイスラーム共同体であるが故にアラブから資本が流れています。また、経済を中国人が握っているために中国資本を招き、イギリス連邦の一員で多くのインド人を抱えているために西洋のみならずインドからも資本を得て、ハイテクなどの先端技術を国内に移植することに成功しています。これらがバランスを欠いたり、極端なマレー人の民族主義に傾いた場合、現在のインドネシアに見られる東南アジアの強権的政権は中国共産党の影響を受け、独裁の政治的手段として社会主義へ移行し、経済は破綻します。一方で中国人の支配に任せておけば、同様に中国共産党の影響を受けるか、そうでなくても現在のイスラム共同体からの支援はなくなり、マレーシアの民族間の経済格差は今以上に開きます。このように考えると現在のマレーシアという国家がいかにこれからのグローバル社会に対して日本以上のポテンシャルを秘めていて、ともすれば日本以上に完成された社会であると気付くでしょう。またこのことは20年の長きに渡り政治が停滞してした日本と比べ、この国の政治家たちが強権的だと揶揄されながらも常に絶え間なく国家を運営してきたことを表しています。
言うまでもなくマレーシアは一つの国家ですが、国内は民族ごとにその社会は分かれています。私たちがマレーシアを訪れたときに、これらのどの社会と接触するかはその後も影響します。民族ごとにアプローチが異なるというのも奇妙な話ですが、それが現在のマレーシアです。恐らくあなたが真っ先に会話を交わすのは、見た目も日本人と同じこともあり中国人である確率が高いでしょう。多くの場合、彼らはマレーシアで生まれ育ち、マレー語、中国語も普通に話しますが、家庭の中では福建語、広東語、潮州語などを使っています。彼らの親の世代は日本軍に抵抗を続けた経験を少なからず持っていますが、戦後マレーシアが独立した後、マレーシア政府は中国と繋がる共産党を厳しく弾圧し、中国系住民はブミプトラ政策の元でも比較的裕福な生活を送ってはいても、マレーシア政府に対しては少なからず不満を持っています。彼らはマレーシアに永住していますが、祖国は中国であるという意識は今でも変わりません。元々、成功するために中国を離れたという意識が強いため、商売は大変に熱心です。また教育熱心な精神的風土を持っているため、その子弟はマレーシアでも高い教育を受けていて、外国人に対しても全く臆することなく話し掛けます。感性も日本人と近いため、きっかけさえ掴めば深い付き合いができるでしょう。しかし、そのために周りはあなたが中国人のグループだと見なしてしまい、他の民族との接触が減ってしまうことも起こります。マレーシアの列柱社会とはそういうことなのです。
確かに中国人たちがこの国の経済を牛耳っていても、国内の政治は基本的にマレー人が仕切っていますから、この国を理解するためにはマレー人を知ることが鍵になります。しかし当のマレー人は中国人と比べ積極的に外国人旅行者と関わろうとはしないため、彼らと自然な交遊関係を結ぶことにはどうしても時間がかかります。さらにイスラーム共同体の一員として異教徒に対して、コーランの規定にある以外の交流については彼ら自身も戸惑っているというのが本音でしょう。比較的、ユダヤ教徒、キリスト教徒に関しては寛容だと言えます。正直、私もどちらかと言えば取っ付きにくい印象を持っていますが、概して彼らと付き合うと驚くほど誠実な方が多いようです。そうは言ってもイスラム教自体、男女の区別を明確にコーランで規定していて、マレー人同士でも異性に気軽に話しかけることも多くないため、外国人の場合はそういった異性との出会いは難しいと考えて下さい。
ご存知の通りイスラムの女性は肌や髪の毛を露出することを禁じられていて、また一部では外で働くことも疑問視されかねない状況の中で、マレーシア社会の中で働く女性たちはイギリス的な思考を持ち、ブミプトラ政策の後押しも得て大変にプライドは高く、総じて色気はもとより愛想もないという感想になりかねません。男性に対して従順といったことはなく、家のことは女性に任せるようにコーランに書かれているため、むしろ街中で見掛けても堂々としています。比較的、日本の女性ならマレー人男性も寄って来ますが、日本の男性の場合、なかなかマレー人男性でさえシャイで寡黙なことが多くそのハードルは高く感じられるでしょう。しかしマレー人は根は大変誠実で世話好きな方が多いので、あなたの努力に対し彼らは必ず報いてくれます。

重要なことは私たちが彼らの価値観を学ぶことは世界の14億のイスラム共同体と接することを意味していて、日本人にとってマレーシアはその絶好の機会が開けていることです。「豚を一切口にしない」、「お酒を飲まない」といったコーランに基づく彼らの生活習慣はつき合う中で追々学べば良いと考えますが、彼らにとってこうした生活は私たちの憲法と同様に犯すことのできない決まりであることを頭に入れておいて下さい。

最後にマレーシアの約1割を占めるインド人ですが、政治家が多い割には政治勢力としてまとまっている印象もありません。その一方でマレー人社会に同化する訳でもなく、やはり独自の存在感を放っています。皆さんも初めのうちはマレー人とインド人の区別がつかない方もいるでしょうが、見慣れるとかなり歴然と異なることに気がつきます。この一見しただけでもお互いに渾然と成ることもなくそれぞれの民族を貫いて生活しています。マレーシアのインド人のその祖先は主にイギリス人が労働者として強制的にインドの各地、主に南部から連行して来た者たちです。彼らはタミル語を使いヒンドゥー教徒が多いという以外は説明しづらいのが実情です。つまり一般的にも「インドとはどういう国か」と言う問いに対して、インドそのものが余りに広く統一された特徴を挙げることが困難であるのと同様です。例えばマレーシアにいるインド人の出身地だけ見ても、インド、パキスタン、スリランカを含んでいますし、その言語に至ってはタミール語、マラヤラム語、パンジャブ語、ヒンディー語、ベンガル語、グジャラティー語、シンハラ語、グルカ語と続きます。またマレー人に貧困層が集中している一方で、インド人もまた貧富の差が大きいと言えます。例えば、彼らの主な職業は宝石業、両替商、また得意な英語を生かして弁護士、政治家などがいる一方でプランテーション農業などの肉体労働者まで幅広い層にまたがっており、当然それぞれの職業で全くその性格も異なります。しかし、前述の中国人やマレー人と比べたら、多くのインド人はより西洋的な価値観を持ち合わせていてマレーシアの中で英語を武器に西洋社会とを繋ぐ要となっています。経済的には中国人とマレー人の中間という印象ですが、一部に大変高い教育を受けている者が多いのがインド人です。そのため一般に私たちが接するインド人はビジネスの機会が多くなり、またその交際も西洋のスタイルに近いかも知れません。
以上がマレーシアを構成している主な民族ですが、もし、あなたがこの国で暮らして行こうと思うなら、シンガポールと同様に一般的な小手先のコツなどと言ったものは通用せず、彼らと対話できるようになるまで地道に勉強する以外にありません。このマレーシアは確かに日本とは異なる社会ですが、グローバルな社会として日本以上の完成度を持っています。このことを実感したければ、何処でもマレーシアの名もない都市を訪ねて、そこで暮らす人々を観察してみれば良く分かります。確かに日本と比べれば慎ましい生活ですが同時により余裕のある暮らしをしています。現在の日本はこれまで育てて来た作物を全て収穫し、この次に何を植えるべきかを悩んでいる社会とするならば、マレーシアは今まさに作物が実り、これから収穫を始めようとする社会です。私たちが今悩んでいるこれからの在るべき社会という問いに対する答えは、マレーシアの観光、外交、外資の誘致といった実績にあります。1980年代のマレーシア政府が「ルック・イースト政策」の中で日本人の勤勉さから学ぼうとしていたように、今私たちはその未来を模索するために彼ら以上の真剣さを持ってマレーシアから学ぶ時なのです。同時に日本の政治が20年もの間、停滞していたことが私たちに一体何をもたらしたのかを知り愕然とするでしょうが、このことは逆にマレーシアの政治家たちが絶え間なく国家を導いた結果なのです。
また、全述した通り、マレーシアの女性は大変に見た目は控えめなのですが、店員などと話してみても日本的なサービス精神など余り期待できません。社会全体が禁欲的であるため、他の途上国のような浮ついた態度で彼女らに接すると問題が生じやすいと言えるでしょう。マレーシアを旅する時は都市部でオートバイなどを借りるなどすると良いでしょう。地方を気軽に見てまわることができる国として、アジアの中でもマレーシアは最適です。

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