アジアンどっとコム・ミャンマー_ヤンゴン

現在、ミャンマーにあるイラワジ川、シッタウン川、サルウィン川流域には、古く紀元前3万年頃から人が住み着き、紀元前2,000年頃に既に水稲農耕社会があったと考えられています。中国の「後漢書」にはこの地域に1世紀末から2世紀前半にかけてタン[手篇+單]国という国が出てきます。120年には後漢に朝貢し、西欧の大道芸人を安帝に献上したという記録があります。このことから既にビルマを通る西南シルクロードはローマまで繋がっていたようです。当時のビルマは主にモン人が支配しており、実際にビルマ人がここを支配するのは10世紀以降のことです。タン国の後にピュー(驃)が「隋書」及び「新唐書」に登場します。
ピューは驃族の国で「長幼の序が見られる」文明国であったと記されてありますが、832年にチベット・ビルマ語族の南詔によって滅ぼされました。また、この他にもタイェーキッタヤー、ベイタノウ、ハリンジーといった城市国家が存在し、今でも城郭遺跡が残っています。これらの遺跡から仏像と共にヒンドゥー神像が出土しており、南仏上座仏教の他に大乗仏教とヒンドゥー教が既に伝わっていたようです。

1300年に入ると中国の元がビルマに侵攻し、パガン王国も元との戦いに次第に衰退し、1364年新たに興ったインワ朝はアヴァに遷都します。また下ビルマにあったハンターワディー朝はタイのアユタヤ朝が北と東から勢力を拡大したことに伴い1369年にペグーに遷都します。
15世紀後半のビルマの城市(ミョウ)にはタウンドゥインヂー、タウングー、ヤメーディン、サリン、ピェー、ニャウンヤンなどが存在し、それぞれが城主(ミョウ・ザー)の支配の元で独立していました。例えばタウンドゥインヂー城市は、中国の明朝と独自に国交を結び1433年から40年間明朝から東?長官司の役職を得て、綿布を中国に輸出しています。ハンターワディー朝のラーザーディリ王(1385-1423)の時代には既にポルトガル、ギリシア、ベネチア、マグレブ、パレスチナ、ペルシャ、アルメニア、エチオピア、マラバル、スマトラなどとの交易が確認されています。

こうした中で1754年にシュエボー(現コンバウン)、ミョウの領主出身でアヴァに攻め込んだアラウンパヤーが中央平原を支配します。1756年にはフランスが駐留しているシリアムを占領しますがアユタヤへ遠征途中で亡くなります。これを引き継いだシンビューシン王はチェンマイ、ビエンチャン、ルアンパパーンまで遠征し、1766年に清朝の乾隆帝の遠征軍を4度に渡り撃退し、1767年にアユタヤを征服します。1783年にはボードーパヤー王は新しい都をアマラプーヤに建設を始めますが、タイのターク・シン王の台頭とともにタイ・ビルマの支配権を巡って1785年とその翌年にタイに遠征しますが、逆に撃退されてしまいます。中国とはその後長い冷戦を経て1790年には清国と管理貿易を始めます。これをコンバウン朝と呼び、多くの戦争捕虜を王都アヴァに連行し、これに西洋人の砲手も加わり軍事力は強大になりました。そうした中で1798年にトゥインティンタイ・ウィミンヂー、マハーシィートゥーが「新大年代記」を編さんし、1802年には戸籍台帳に基づく全国的な調査が行われます。1832年にバヂドー王によりビルマの建国神話である「瑠璃王宮大御年年代記」が完成します。
またイギリスはビルマ統治以前にもモールメインに神学校をつくると共にローマン・カトリックを布教しており、1850年の時点でビルマには既に17の教会がありました。中でもカレン族には西洋式の教育を施し、1881年にはカレン民族協会(KNA)が発足し、1886年に施行された軍事警察法で発足した武装警察には半分のインド人の他は全てカレン人を採用しています。イギリスはこのように民族による「複合社会」を意図してつくり、その民族意識によって民族同士の対立を生み、これを植民地統治に利用していきます。同様にビルマ都市部ではインド移民と中国移民が増え続けましたが、1910年以降はインド人の増加が顕著になります。それと同時に国内の農業は植民地のプランテーション化が進み、ビルマが米の輸出国になるにつれて自作農、小作農ともにギリギリの生活の末に土地を担保に負債を抱える者が続出し、やがて季節労働者として都市部に流出します。しかしその都市部では既にインド人労働者が手配師を通じて港湾荷役作業や製材所で働いており、こうした過剰な労働力の供給が低賃金競争を招き、やがてインド人排斥運動へと発展します。
このような状況の中で1906年にヤンゴンで初の民主主義運動と言われる仏教青年会(YMBA)が結成され、1920年にはビルマ人団体総評議会(GCBA)へと発展します。GCBAは、イギリスからの「自治権」獲得を目標に、農民が苦しんでいた人頭税の廃止を訴え、イギリス製品のボイコット運動を通して多数の政治エリートを排出していきます。1922年の第1回立法参事会議員選挙でGCBAは内部分裂しながらも、1935年ビルマ統治法によりビルマの自治権は強化され、1936年の下院総選挙でバ・モウ、ウー・ソオらが台頭します。一方このGCBAをイギリス植民地の協力者として批判したのがタキン党です。タキンとは「主人」を意味し、「ビルマの主人はイギリス人ではなく我々ビルマ人」を訴え、自治ではなく社会主義国家ビルマの独立を掲げました。1938年から翌年にかけてタキン党はゼネストを断行し、植民地初代大統領バ・モオを退陣に追い込みます。
14世紀以降、ビルマ中央平原の米を供給し続けたタウングー城市は周辺地域からの難民を吸収し、急速に拡大します。1491年タウングー城主ミンチーニョウはヤメーディン、タウンドゥインヂーを次々と陥落。さらにミンチーニョウの子ダビンシュエティーがバセイン、ミャウンミャを攻略し、ついに1538年ハンターワディー朝をそこに駐留していたポルトガル艦隊もろとも打ち破り、王となってペグーに遷都します。その後もサリン、サグーを支配下に治め銃火機を備えたポルトガル兵を従え下ビルマと中央平原の統一を目論むまでになります。1551年にはダビンシュエティー王の義弟だったバインナウが王朝を引き継ぎ、新しく宮殿を構えインワ城を陥落、やがてモーニン、モーメイ、チェンマイ、ビエンチャン、マニプールへと勢力を拡大します。1564年にタイのアユタヤを陥落させ、1568年にシプソンパンナーが陥落することでほぼ現在のビルマを支配しました。このタウングー朝時代には貨幣を統一し、ワーレルー法典を整備します。またインドのムガール帝国、セイロン、ゴルコンダ(現ハイデラバード)と友好関係を築き、ヨーロッパ商人との間で宝石の輸出やチーク材による造船を請け負うなど国際的な交易が活発に行われました。

西はマニプールから東はラオスまで達したタウングー朝は、果てしなく続いた近隣諸国との戦争により周辺住民が逃亡し労働力を失います。そのため1567年以降は王都ペグーでも飢饉が頻発します。ナンダバイン王(1581-1599)の時代に5回ものアユタヤ(現タイ)遠征を繰り返しますが、結局、撃退されてタウングー王朝の衰退は決定的となりました。まず1594年にテナセリムの一部とダウェーをアユタヤ(現タイ)に奪われ、ピェー、タウングー、アヴァ(インワ)、チェンマイなどの城市が離反し、王都ペグーはタウングーとアラカンに攻められ廃墟と化します。またアユタヤにマルタバンを奪われ、とうとうビルマはタウングー、ピェー、アユタヤ、シリアムに分裂しました。

1885年にビルマ全土がイギリスの支配下となったビルマは、イギリス領のインド帝国ビルマ州となります。またイギリスはシャン、カチン、チン族をビルマ民族と分けて統治しました。1937年にビルマ統治法が制定され、ビルマはインド帝国から分離されてビルマ州知事がビルマ総督に変わります。また、土地の所有権の概念が導入されたことに伴い、全ての住民が土地に縛られることになります。1886年ビルマ全土は7管区、38県に分割され、それぞれの県を弁務官、副弁務官が担当します。
日本軍政府は、若くて過激なタキン党員を敬遠し、中央行政府長官にGCBAにいたバ・モオ前首相を任命しましたが、バ・モオは日本軍の意に反して共に自由ブロックで戦ったアウン・サンなどタキン党員を政府機関に引き入れます。1943年8月1日、日本軍はビルマでの軍政を終わらせ、ビルマは大東亜共栄圏の国として独立します。バ・モオが首相になり、内閣閣僚にアウン・サンなど6名のタキン党員が入り、ビルマ防衛軍がビルマ国民軍(BNA)に変わります。また、続いて日本政府の意向を受けてビルマ政府はアメリカとイギリスに宣戦布告を行いますが、日本軍が秘密軍事協定に基づきビルマ駐留を続けたため、アウン・サンとタキン党員は密かに抗日活動に転じます。

ビルマ国内では憲兵隊の拷問、日本軍の横暴に加え婦女暴行や家畜の略奪、泰緬鉄道の建設に伴う強制労働があり、これに加えてインパール作戦の日本軍の歴史的な敗北により急速に信頼と威厳を失っていきました。この作戦に参加した日本軍将校8万6千人の内、生還したのが1万2千人に過ぎず、この7万人を超える犠牲者の4万人は餓死者だったため、この杜撰な作戦は現在でも語り継がれることとなります。作戦を発案し、強硬に推し進めたのは牟田口康也という陸軍中将ですが、参加した部隊の多くが戦地で補給を受けることもできずに、弾薬が尽きた部隊はイギリス軍に石を投げて応戦し、最前線で指揮を執った部隊長の英断で退却したものの、その路には餓死者が続いたために「白骨街道」と呼ばれました。これらの作戦の責任者は犠牲者に対する反省もないまま現在に至っています。

1945年10月戦時中インドのシムラに避難していたイギリス政府が再び帰って来ます。イギリス政府は以前にも1939年までにビルマに自治権を承認する内閣の声明を発表していましたが、戦後、その権力を委譲する相手がビルマ政府(GCBA)からタキン党ナショナリストに変わります。イギリスは戦後インドの独立運動に手を焼き、ビルマ国内でイギリスの経済的利権を長期的なものにするという打算から、パサパラの中でも穏健派と知られる国軍のアウン・サンに委ね、1947年1月にアウン・サン=アトリー協定が結ばれます。1947年2月のパイロン会議にて連邦国家設立のための少数民族の代表と話し合いが行われ、4月の制憲議会選挙でパサパラが圧勝し、これを踏まえてイギリスはビルマを共和制国家として承認します。その矢先の1947年7月19日に国家元首となったアウン・サンはウー・ソオの部下によって射殺されました。

1948年1月4日、アウン・サンを引き継いだウー・ヌがビルマ連邦の初代首相となりビルマは独立します。当初パサパラは議会制民主主義に則りながら、徐々に経済を資本主義から社会主義に移行させるという漸進的社会主義を掲げます。さらにシャン族、カレンニー族、カチン族に対して州政府の地位と自治権の一部を認め、10年後にはビルマから分離できる権利を憲法で保障しました。ところが三ヶ月経たないうちに革命を唱えてビルマ共産党が武装蜂起します。1949年にはカレン民族同盟(KNU)が独立を求めて武装蜂起したため、1951年にはカレン民族にも州を与える約束をします。この間ビルマ国軍から共産党とカレン民族同盟に合流する者が相次ぎ、ビルマ国軍は急速に弱体化しました。

この事態を受けて国軍の最高司令官であったネィ・ウィンは、ビルマ民族を中心に据えて国軍の建て直しを図り、1950年代後半に反政府武装勢力を地方に封じ込め、ラングーン(ヤンゴン)を中心とする国家体制を強化しました。一方、政治の舞台では与党のパサパラの議員たちが私兵団を持ちミニ財閥と化し、これに反発した者たちは左翼政党を結成し議席を獲得します。1958年4月にビルマ経済が頓挫したことを受けて与党パサパラは二つに分裂してしまい、この混乱を収拾するためにウー・ヌ首相は国軍大将ネィ・ウィンに治安維持を目的とした選挙管理内閣を組閣させて議会で承認します。まず、ネィ・ウィンは憲法で認められていたシャン州、カレンニー州、カチン州の藩王を制度ごと廃止し、各地の私兵団を取り締まり、共産党学生を一斉に投獄しました。この後、一旦は治安が回復し、1960年2月の総選挙に伴いネィ・ウィンは政権を退き、ウー・ヌが復活します。復活したウー・ヌは、まず、上座仏教を国教に指定したことで他の宗教者らの反発を招き、経済政策を外貨獲得を目的とした資本主義経済に転換したことで国内の政治は行き詰まりました。

ここに至ってついにネィ・ウィンがクーデターを決行し、ウー・ヌ政権の政治家全員を逮捕、議会を解散させた後に憲法を廃止しました。次いで軍人だけの革命評議会を結成し、ネィ・ウィン自身が議長となり、これに反発したラングーン大学学生同盟に弾圧を加えます。1962年7月にビルマ社会主義計画党(BSPP)を結成し、党議長にネィ・ウィン自らが就任しBSPPによる一党独裁体制が確立します。このビルマ式社会主義と呼ばれる体制は、共産主義へ移行することのない最終的にして理想的な政治体制と規定し、実際には反共産主義の社会主義でありビルマ人のための国家建設を目指します。「国有化」は共産圏のプロレタリアート(人民)による国の所有を意味せず、当時ビルマにいたイギリス人、インド人、中国人など外国人資産家の追放を意味しました。また、文化・教育面でもビルマ語教育に比重が置かれ、少数民族の自治権剥奪からやがて武力による制圧へと変わります。また、従来の積極的な中立を心がけていた国際関係は次第に鎖国体制へと転じました。結果的にこの体制が国内にもたらしたものは軍人たちが天下りする非効率的な社会とそれが招いた経済の不振、タイなどからの密輸がもたらす裏社会の繁栄でした。

1974年にBSPPは社会主義憲法を制定し、BSPPの一党支配体制が制度に変わります。この時ネィ・ウィンは大統領に就任しますが、1981年にはサン・ユに大統領を譲り、自らはBSPP議長に留まりました。一方ミャンマー国内は国営企業労働者のストライキと学生による反政府活動が活発になり、この事態を打開するためにネィ・ウィンは積極的に海外のODA(政府開発援助)を利用します。しかし、やがて債務の返済に行き詰まるようになり、1986年にビルマは国連に最貧国待遇を申請し、国民に予告することなく高額紙幣を廃止しました。1988年に貨幣が使用できなくなったことに怒った国民が大規模な運動に発展し、この7月にネィ・ウィンはBSPP議長を引退しました。
軍事政権であるSLORCは、この時同時に複数政党の導入と総選挙を約束しました。1989年7月に国民民主連盟(NLD)書記長アウン・サン・スー・チーを自宅に軟禁した上で、1990年5月に約束通りSLORCは総選挙を行い、国民民主連盟(NLD)が得票率の65%を獲得し、485議席中392議席を占めて与党だったNUP(BSPP)に圧勝しました。この時点でミャンマー国民がビルマの民主化を望んだことが明確になります。またアウン・サン・スー・チー女史にはノーベル平和賞が送られます。ところが軍事政権はこれらを無視してそのまま政権に居座り、1992年に軍事政権議長にタン・シュエ上級大将が就任し、市場経済の導入に踏み切り、1993年に国民会議を招集し新憲法の草案に着手します。1997年にはSLORCを解散して、国家平和開発評議会(SPDC)を設置しますが、1962年のネィ・ウィン体制がそのまま存続していると考えられています。

1997年、ASEAN通貨危機に伴いミャンマーのGDPが急激に落ち込み、これまで以上に中国がミャンマーの政治、経済、軍事にわたって介入するようになったため、このことを危惧したASEAN連盟はミャンマーの連盟加入を承認します。しかし現実には国連、国際世論はこの軍事政権を認めていないこともあり、ASEAN諸国は協力関係を築くためにもミャンマーの軍事政権に抜本的な変更を求めているようです。1990年の選挙で圧勝したアウン・サン・スー・チー女史は今でも自宅軟禁と拘束を繰り返していて、アメリカとEU諸国は制裁措置を強化させています。2006年10月にはミャンマー中部のピンマナ近郊にネピドーという都市を建設しそこに遷都しますが、ここへの一般人の立ち入りは禁じられています。2007年にはガソリンなどの燃料が最大5倍まで値上がりしたため各地で大規模なデモが起こり、これを取材した日本人カメラマン長井健司さんがデモを制圧する国軍に射殺されました。2008年には新憲法の法案を国民投票にかけ、今年の2010年に総選挙が行われる予定になっています。軍人は議会の25%とする憲法のために、選挙前に多くの軍人が民間人になって選挙活動を戦うと見られ、また憲法によってスー・チー女史は立候補できないために軍関係者が議席の大半を占めることになると予測されています。

ミャンマーの魅力はしっかりとした文化を背景に誠実な日々の暮らしを送るミャンマーの人々に尽きます。同時にその社会は「時代が異なる」という感想も抱きます。恐らくそのバランスが私たちに幻想的で魅力溢れる印象を与えています。最近になり急速にヤンゴン、マンダレーなどでは通信環境が整いつつあり、ネットカフェはもちろん、携帯電話も使えるようにはなっています。しかし、メールボックスへのアクセス制限が掛かっていたり、携帯も様々に制限されています。夜間にディスコに集う若者たちが車で疾走する光景も見られますが、こうした街を一歩外れると今でも藁葺きの家が並んでいます。外国人は確かに監視を受けている面はありますが、同時に保護されている面も有り、こうした家々を覗くためには自分の足で歩くしかありません。ミャンマー国内の教育は識字率も高く、民族問題があることを差し引いても行き渡っている感想を持ちますが、高校以上の教育、例えば英語をとって見てもイギリスの植民地であったにも関わらず実用的なレベルに達していないようです。しかし、ミャンマーの学生たちは大変に勉強に熱心で学校教育の不足分を彼ら自らの力で補おうとしているかの印象を受けます。ヤンゴン市内には外国観光客の他にもインド人街や中国人街があるように国際色豊かな活気に溢れた環境ですが、街はどことなく幻想的な雰囲気を失うことなく、また多くの人々は大変誠実です。実際のところ、私たちが見ることの出来ない地域がある反面、余計に身近に現代の秘境と言える場所にいるように感じられます。
目にすることができる観光名所でさえ私たちの感覚からはかけ離れた造形をしていますし、そこで暮らす人々のその国際的な社会の中で異なる時代を生きている現実の間を訪れた私たちの感覚も浮遊するのです。実際にはこの国でどの程度学術的な研究が進んでいるのか伺い知れませんが、一見した佇まいを見ても世界的な遺産があちらこちらに転がっていることは容易に想像できます。それだけにこの国を訪れた者は、ミャンマーがこれから先、他のASEAN諸国と同様の道を歩むことに躊躇いを禁じ得ません。私たちの勝手であることは承知しながらも、この私たちを魅了する幻想的な世界が国際的な視線に晒され、やがては消えて行くことを恐れるのです。
またビルマとタイの国境付近には6世紀から11世紀にかけて、同じモン族によるドヴァーラヴァティー王国があり、ピューで発行された旭日銀貨がこの国でも使われていたようです。またドヴァーラヴァティー王国産の綿布は当時のペルシャの旅行家が太鼓判を押すほどの高級品として知られ、中国などに輸出しています。そして、ようやく9世紀になって南詔国の支配を受けていたビルマ人がイラワジ川流域に定住します。またイラワジ川の右岸にはスゴー・カレン人、パラウン人、南部にモン人がいました。
1044年にビルマ族のアルニッダ王が下ビルマを平定しパガン朝を興します。1165年にスリランカの侵略を受けますが、その後、使節をスリランカに派遣し、多数のスリランカ僧がミャンマーを訪れます。この頃の碑文には古モン語、パーリ語、サンスクリット語が使われていましたが、やがてビルマ語に統一され、ビルマ圏の文化が確立しました。仏教は既に大乗系、密教系、南伝系の他、ヒンドゥー教もありましたが、王の権力を正当化するためにはこれら寺院などに宗教施設を寄進し、徳を積むことが重要でした。パガンに現存する2,300余りの廃墟の仏塔は、そのほとんどがパガン朝後半の1世紀に集中して建てられています。1299年にシャン族(現タイ人)の血筋を持つクラワチュワー王が殺害されパガン朝は途絶えます。
しかしバインナウン王の子ニャウンヤンは1597年アヴァ(現マンダレー管区)を拠点に、再びメイッティーラー、ヤメーディン、シャン地方を得て、その後のアナウペッ・ルン王がピェー、タウングー、シリアム、マルタバン、イエー、チェンマイを奪い返し、1626年には東はケントン、チェンマイ、西はヤカイン山脈、北はモーガウン、センウィー、南はダウェーに到ります。シリアムを管理する立場にあったポルトガル人はアナウペッ・ルン王によってアヴァに連行された後、「バインジー」と呼ばれた世襲性の砲兵隊となり土地を与えられます。この子孫は現在でもローマン・カトリックを信仰しながらミャンマーに暮らしています。

こうして第2次タウングー朝はニャウヤン朝と呼ばれ、戦乱による多くの難民と捕虜を得て再びビルマの中央平原に君臨しました。前のタウングー朝末期の混乱を踏まえ、アナウペッ・ルン王が治めるビルマ国内ではタウングー城市とピェー城市からその主権を剥奪した上で自分の一族に与え、さらに中央から知事を派遣し、また知事を監視する軍司令官などの目付を配置します。しかしながら、やがて領主を監視していたはずの知事たちは領主と結託し、一方、中央では王族たちが派閥をつくり税の横領など様々な不正がはびこり17世紀後半には次第に国は衰退します。この頃にウー・ヌによってビルマの本格的な正統史である「大年代記」が作られます。

まず、東方でチェンマイとシャン藩侯が離反し、西北のインドのマニプールの騎馬隊に襲われ、ペグーの知事までも反旗を翻します。やがて1752年にチェンマイと同盟を結んだペグーの城主ビンニャー・ダラによって王都ペグーは陥落します。その後、ビルマは無政府状態と化しますがそんな中でも地方の領主は健在でした。また、シリアムには一時、イギリスとフランスの東インド会社があり、ここを拠点にヨーロツパの火器や商品をビルマに輸入し、象牙や綿花、チーク材の造船などが輸出されます。しかし、イギリスに依るマレーシアのマラッカの開発が進み、やがてビルマでの活動は衰退します。その後。ペグーのタメントー王にイギリスの東インド会社は焼かれてしまい、フランスだけが残り細々と海外との交易が続けられました。
その頃、イギリスはシリウムからの撤退後、チッタゴンを支配下に治めました。そんな中、コンバウン朝の王都アマラプーラで天然痘が発生し、多くの難民がチッタゴンへ避難します。次いで1784年にはボードーパヤー王がアラカンを侵略し領有したことを口実にヨーロッパ独特の地理的領有権を主張する植民地支配に転じ、1824年にイギリスとビルマの全面戦争となりました。この弟1次英緬戦争に勝利したイギリスはヤンダボー条約を結び、アラカンとテナセリムを譲り受け、アッサム、マニプールの宗主権と賠償金1,000万ルピーを要求します。その後もイギリスはビルマへの干渉を強め、1852年にヤンゴン、シリアム、ダラ、バセイン、マルタバン、ピェーを占領し、イギリス領インド総督がペグーの併合を宣言します。1853年にビルマのミンドン王は和平交渉のため使節団を送り、協議の結果、アラカン、テナセリムを加えた下ビルマ全域を失いました(第2次英緬戦争)。これによりビルマの海上を封鎖したイギリスは、米や塩など生活必需品に高い関税を掛けビルマ国内にインフレが起きるように画策します。

イギリスに敗れたミンドン王は1857年にマンダレーに遷都し、急速に西欧の科学技術を取り入れ富国強兵、殖産興業への道を邁進します。外国人技師をフランス、ドイツ、イギリス、イタリア、アメリカから招くと同時に、100名を超える留学生をフランス、イギリス、イタリア、インドに派遣します。ちなみに日本の明治維新が1868年、岩倉具視ら総勢107名が岩倉使節団として世界へ旅立ったのが1871年ですから、ほぼ同じ時代です。また、1871年に紀元前1世紀にスリランカで途絶えてしまっていた南伝系仏典の第五回仏典結集をマンダレーで開き、コンバウン朝の王権の正当性を内外に訴えました。さらに税制の改革に伴いフランスの鋳造技術を導入して貨幣制度も改革し、1885年までに2,900万チャットもの金、銀、鉛、銅貨を発行しました。

1884年にビルマは経済の協力関係を結ぶ目的でフランスと緬仏条約を結びますが、1885年にこれに業を煮やしたイギリスがマンダレーに進撃し、コンバウン朝は滅亡します(第3次英緬戦争)。

1939年9月にドイツがポーランドに侵攻したことでイギリスとフランスはドイツに宣戦布告し、第2次世界大戦勃発します。ビルマではこれを受けて植民地主義に反対する自由プロックが組織され、議長に前首相のバ・モオ、書記長にアウン・サンが就きました。このバ・モオ率いた自由ブロック運動はビルマ政府により多数のメンバーが逮捕されたため一気に武装化しました。

一方、当時の日本は1937年の盧溝橋事件以来、中国、日本双方とも宣戦布告もないままに既に戦況は泥沼化していました。1939年、この状況下でアメリカとイギリスは中国に武器を補給し、中国を支援するためにビルマに援蒋ルートを敷きます。日本はこのルートを切断することを鈴木敬司日本軍陸軍大佐に委ねます。1940年6月に鈴木大佐はビルマのタキン党幹部と接触し、日本がビルマの独立を支援することを約束し、1941年に「南機関」と呼ばれるビルマ工作謀略機関を設置し、鈴木自らが機関長を名乗ります。まず、アウン・サン、ネィ・ウィンなど「30人の志士」と呼ばれたビルマ人たちに海南島(現中国)で軍事訓練を施し、1941年12月に日本軍の真珠湾攻撃とともに始まった太平洋戦争と同時に彼らに義勇軍を組織させ、日本軍とともにビルマへ進撃しました。1942年1月にはこれにタイで暮らすビルマ人も加えてビルマ独立義勇軍(BIA)となり勢力も1万人を超えます。1942年6月にはビルマの民衆の声援の後押しを受け、イギリス植民地政府はついにインドに逃れ、同時に日本軍がビルマに軍政を敷きます。この時点で南機関も解散し、BIAとともに「ビルマ防衛軍(BDA)」を組織します。

ビルマの日本軍統治下にあっても連合軍から武器の支援を受けていたカチン、カレン族と日本軍は戦闘状態にありましたが、1944年8月にビルマの政府内に抗日統一組織として「反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)」が誕生し、続いてこれにビルマ共産党、タキン党系非合法組織とビルマ国民軍が加わり地下活動が活発化します。このパサパラと呼ばれたAFPFLを率いたのがアウン・サンと共産党のタキン・ソウ、タキン・タン・トゥンでした。彼らは既に1942年から連合軍と通じ、1945年3月に連合軍から武器の供給を受けた部隊が編成されます。また日本軍も独自にビルマ国民軍にゲリラ教育を施していて、さらに農民たちも加わり、1945年3月27日に日本軍に対して一斉蜂起し、ついに8月に日本軍は敗退します。
1988年8月以降、国内は10万人規模の集会とデモが繰り返され、各地で国軍との激しい衝突が起こります。この時の主な指導者の一人が暗殺で殺されたビルマ建国の立役者アウン・サンの娘のアウン・サン・スーチーです。国軍は激しい戦闘を制し9月18日に全権を掌握し軍事政権を宣します。国軍を率いていたソオ・マウン大将は人民評議会を廃止して国家法秩序回復評議会(SLORC)を設置し、ネィ・ウィンが指導したBPSSは民族統一党(NUP)に名を変えます。同時にこの時、国名をビルマ連邦からミャンマー連邦に変更し、日本政府はいち早く軍事政権を承認したため、これ以降日本ではこの国を「ミャンマー」と呼んでいます。
現在のミャンマーは軍事政権が続いているために国際社会に対して自ら国を閉ざしている印象は付きまとい、事実、アジアを知っている方でもミャンマーへは行ったことのない方が多いでしょう。ミャンマーは経済的にアメリカやEU諸国から制裁を受けている状態にあり、中国やかつてのソビエト、そして一時期北朝鮮からも援助を受けていたようです。現在これに加えてASEAN諸国が関係を持ちつつありますが、ASEAN自体決して西欧と価値観を対立させるつもりはないために、ASEANの加盟国となったことは経済面を別にすれば必ずしもミャンマー政府にとって都合が良いわけでは有りません。またこうした中で日本の無償資金援助協力は2007年で12.4億円に及び、現在でも宗主国であるイギリス、オーストラリアを抜き日本が最大の援助国となっています。ミャンマーで暮らす日本人は2008年時点で530人。一方日本で暮らすミャンマー人は約6千人います。日本人観光客は2004年で2万人を超えました。
以上はここを訪れる多くの観光客の視線ですが、実際には住民同士が監視し合い、また密告の絶えない社会だと言われます。彼らの大変率直で明るい人柄の裏には、私たちに伝えたくても口を閉ざす他にない厳しい現実の中を生きています。例えば、報道カメラマンの長井さんが射殺された様子を彼らに聞くことはできません。仮に話してくれる方がいたなら、後日その方に必ず迷惑がかかることになります。しかし、こういった事情を省けばミャンマーの方々の日常生活は私たちと左程変わりはありません。ミャンマーの方は大変な映画好きです。映画館は恋人たちのお決まりのコースとなっていますし、夕方には仕事を終えた者たちは食堂のテレビに映し出される映画を大勢で観ることが日課になっています。日中でも仕事の合間にビデオCDを借りて来て仲間と観ています。テレビ番組も天気予報の他はろくなニュースがない分、アクション映画が流行っていて地元のスターの活躍に一喜一憂しています。面白いことですが、一般に政治を語ることは禁じられていながら、彼らが観ているのは現代の韓国の恋愛映画であったり、アメリカの刑務所の話であったり香港映画であり、内容は私たちが観るものと変わりがないため、多分にその国の政治状況などがリアルタイムに映し出されています。ミャンマーで創られた番組だと善と悪とが類型化された勧善懲悪ものという印象ですが、海外の映画からは複雑な設定であるほど政治について考えさせられるものが少なくないため、吹き替えの際に巧妙に内容を変えていることも考えられます。歌謡曲も大変盛んです。歌のステージや華やかな舞台とバックダンサーなどの振り付けも日本と左程変わりません。曲は日本で聞いたことのあるものも多いのですが、歌詞は全てミャンマー語で歌われています。ですから日本の演歌とともにアメリカのカントリー曲などがミャンマー語で歌われています。
先にも若者がディスコで踊り夜間車を乗り回していると述べましたが、その多くは特権階級の子弟たちであり、一般の方が彼らを見る目は大変冷ややかです。うんざりした表情を浮かべながらも黙々と目の前の仕事に精を出す彼らは確かに日本人に似ています。ふと街を見渡すと目につく車の9割は日本車であり、かつて日本の地方を走っていたバスには今でも日本語がそのまま残っています。彼らにとって日本語を残すことはブランドを証明する貴重な証拠であり、このことからも非常に親日的な国と言えるでしょう。
私たちは市民同士の交流を目的として、その一歩として現在、各国の観光の情報の公開に尽力しています。しかしミャンマーに於いてはこうした交流でさえも問題にならないとは言えない状況です。例えば、ミャンマーでは外国人が泊まれるホテルというのは厳しく指定されていて、時には建物を撮影するだけでも軍及び現地警察から制止されることがあります。例え観光が目的と言えども国の審査を経てビザの発給を受ける訳ですから、私たちが誰にでも無責任にミャンマーへの訪問を勧める訳にも行きません。その上ミャンマー国内の為替相場は国家の管理下にあるとは言えず、ミャンマー政府の公式のレートと市場のレートが200倍もの開きが生じていて、現在では公式のレートで換金する者などまずいないという状況です。ですから、仮に私たちが語学留学であったり企業活動や投資などを行おうとしてもなかなか踏み込めません。また私たちは外国の政治に関わることを目的としておりません。例えばアジアには現在でも社会主義国も共産主義国もありますが、これに対して日本の価値観で外国を評価することをしません。ミャンマーがASEANの経済圏に組み入れられつつあることに大変な関心を持って見つめていますが、私たちが日本の皆さんにこのことで何か働きかけるということはありません。私たちがミャンマーで知り得た情報もストレートに皆さんに公開できないのが現状ですが、皆さんの中でこの国に興味を持った方がいらっしゃるなら、こうした情報の提供を惜しみません。恐らくこの国がこのままで行くことなど世界の誰もが考えていないでしょうし、必ず何処かでその転機は訪れるでしょう。

Copyright(C)アジアンどっとコム All rights reserved.

ngo-asian.com NPO法人アジアンドットコム