アジアンどっとコム・カンボジア_プノンペン

東南アジアで最も古い歴史と伝統を誇るのがカンボジアです。1世紀頃の扶南(フナン)国がクメール人最初の国家と考えられておりますが、現在この扶南(フナン)国はオーストロネシア系の海洋民族とも言われています。6世紀になるとカンボジア民族の真臘(チェンラ)が扶南国を滅ぼし、その後ジャワなどの干渉を受けながらも12世紀にクメール王国は最盛期を迎えます。アンコール・ワットもこの頃に造られました。1432年にはシャム王国(現タイ)に王都アンコールは占領され、その後、現在のプノンペンに王都を移転します。
19世紀になるとシャムとベトナムの度重なる侵略に悩まされ、1863年カンボジアは自らフランスに援助を求め、フランスの保護国となります。1887年フランスはこれにベトナムとラオスを加えインドシナ連邦を樹立しますが、カンボジアは保護国でありながらフランスの植民地になります。また1907年にはフランスの力によりシャムからアンコール一帯の領土を奪い返します。1945年カンボジアは日本軍の支援により一時的に独立しますが日本の敗戦に伴いフランスが再び介入しますが、ついに1953年シハヌーク王が独立を宣言します。
ポル・ポトが実権を握る1975年に先立って1966年頃から中国は毛沢東の思想を前面にプロレタリア文化大革命という名の階級闘争を押し進めていました。一見その名称から思想的闘争という印象を受けますが、毛沢東が中国の大躍進という政策の失敗により政治的窮地に立たされたため、主導権を取り戻すための革命と見られていて、彼自身もこれを階級闘争と明言しています。
元々、ポル・ポトもこの中国政府を後ろ盾に台頭しているため毛沢東の文化大革命を積極的に支持していましたが、これに彼独自の原始共産主義を加え、貨幣経済以前の社会には「搾取」はなかったとし、貨幣による社会を廃止して家族と言う枠組みさえも超えた生産活動に支えられた、土地や財産の所有を一切認めない共同社会を目指しました。実際には都市部に住む住民全てを何も持たせず身体一つで農村へ送り、農作業と灌漑事業などの土木作業に従事させ、またこうした事業の全てを人力のみで行います。しかし食事は一日二杯ほどのお粥のみで自然の果物や魚であってもこれを口に入れたら財産を私有したと見なし処刑されます。また、重労働と栄養失調のために動けなくなってしまった者は放置され、やはり死にました。この様な有様でこの間カンボジアの人口の三分の一が亡くなりました。中国の文化大革命の犠牲者は数百万人から一千万人、ポル・ポトのクメール・ルージュによる犠牲者は百万人から三百万人と言われています。通常このような既存の国家に見られない新しい試みを政治に取り入れようと思うならば、まず国民が理解できるものでなければなりませんから、そのための教育が重要であることは誰の目にも明らかなのですが、ポル・ポトは宗教施設のみならず学校すらも破壊したと言いますから、こうした思想よりも単純に政治を独裁することが目的だったと思われます。つまり、こうした共産主義の思想が「独裁者以外は皆平等」という非常に身勝手な政治を可能にすることでも分かるように、いかなる政治であってもそれは民間人に対しては権力として作用するのです。また、この間、中国は一貫してポル・ポトを支持し続けましたが、ポル・ポトが台頭した1975年には、既に中国国内では文化大革命は失敗であったという結果が出ています。
1960年シハヌークは国家元首に就任。その後、1965年のアメリカの北ベトナム爆撃に抗議してアメリカとの国交を断絶しますが、この頃、国内は安定していました。ところが1970年にその時の首相のロン・ノルがクーデターを起こしシハヌークを国外に追放します。アメリカと中国はこのクーデターを事前に知っていたと言われています。ロン・ノルはクメール共和国を樹立し、ベトナム系住民を虐殺すると共にアメリカは北ベトナム軍の輸送路であったカンボジア国内のホーチミン・ルートを爆撃し、その時何十万人というカンボジア人が巻き添えになっています。
一方、中国にいたシハヌークはポル・ポトら共産主義者たちとカンプチア民族統一戦線を組織し、ロン・ノル政権と戦います。1971年からアメリカがカンボジアへ侵攻しますがその目的はカンボジア内の共産党の拠点を叩くことでした。しかし1973年にアメリカがベトナムから撤退するとともにロン・ノルは軍事力を失いアメリカのハワイに亡命します。
そして、1976年ポル・ポトとシハヌークは民主カンプチアを建国。しかし、ポルポトは共産主義とこうした王制は相容れないこともあり、シハヌークを幽閉しクメール・ルージュの独裁政権がカンボジアを支配し、ベトナムがポル・ポトを倒す1979年までカンボジアは地獄と化します。この期間、ポル・ポトの武器等の実質的な支援は主に中国で、またアメリカをはじめとした国連機関もポル・ポト及びクメール・ルージュに支援金を出しました。有名な現在も残るカンボジアの地雷はこうした援助を元に埋められたものと言われています。
一方、1975年にアメリカ軍を退け、南北の統一を果たしたベトナムは中国の文化大革命に疑いを抱き、ソ連との関係を強化します。1978年頃にはカンボジアは中国の支援を背景にベトナムへ侵攻しますが、同時にカンボジア国内では行き過ぎた政治に対する反乱を恐れたポル・ポトがベトナム国境近くに展開していたクメール・ルージュ将兵を処刑などしたため10数万人のカンボジア軍民がベトナムへ逃亡します。この頃から一部の報道機関にカンボジア国内に虐殺が進行していることを報道されますが、国際世論は何れもこれを否定しています。唯一、ベトナムは難民からカンボジア国内の状況を把握しており、1978年の暮れに元クメール・ルージュの将校ヘン・ソムリンにカンボジア難民らを集めたカンプチア民族救国統一戦線を組織させ、ベトナム軍と共にカンボジアに侵攻、1979年ヘン・サムリンはベトナム軍の力でプノンペンを制圧し、カンプチア人民共和国を宣言しますが、国際世論はこれをベトナムの傀儡政権であるとして認めません。また、この直後中国はベトナムがカンボジアに介入した制裁としてベトナムに侵攻しますが、すぐに撤退。1981年ヘン・サムリンは首相となり新憲法を発布、またクメール・ルージュの元指揮官フン・センが副首相に就任しました。その一方で中国はポル・ポトとシハヌークを北京で引き合わせ民主カンプチア連合を組織させ、カンボジアはまたもやヘン・サムリン政権との間で内戦へと突入、1984年主にベトナム軍はこの民主カンプチア連合の拠点をほぼ制圧しますが1988年にベトナム国内の混乱を引き金に1989年カンボジアから撤退しました。こうしてヘン・サムリン及びフン・センの政権は武力による後ろ盾をなくし、カンボジア国内は再び内戦状態となります。
こうして1991年ようやく国連が仲介役を買って出てカンボジア和平パリ会議に基づきUNTACが統治し、内戦の終結を迎えます。1992年にUNTACの平和維持活動が開始し、1993年国民議会による総選挙が実施され、シハヌークの第一夫人の息子(ラナリット)を第一首相、フン・センが第二首相と言う二人で統治することが決まり、またシハヌークは国王に即位しました。しかし1997年フン・センの武力クーデターによりラナリットは国外に逃亡。1998年の総選挙によりフン・センが第一首相になりカンボジアの実権を握り現在に至っています。また、シハヌークは2004年に退任し、現在の国王はシハヌークの第六夫人の息子(ノロドム・シハモン)が引き継いでいます。また、ポル・ポトは1998年に死亡しています。
これらの事が私たちにとっても重要であることは、私たちが日本の太平洋戦争を振り返って当時の日本政府は狂っていたのではないかと漠然と思うように、また、中国において文化大革命とは何だったのか中国人ですら答えられないのと同様に、今日のカンボジア人たちもポル・ポトのことを未だに私たちに対して説明できないでいます。そして、こうした国の政治よる犠牲者は、政治家が政治家自身を裁かない限りいつまでも解決できないために、やがては歴史から忘れられるという運命から逃れられません。問題がどこにあったのかを国民自らが考えない限り、被害者である国民にはそれを防ぐ術はありません。現カンボジア政権は元クメール・ルージュの幹部たちであることに変わりはないため、日本の戦後と同様に、この問題を検証し解決するということはないでしょう。現在のカンボジアで元クメール・ルージュの少年兵たちも既に40歳を超えています。しかしその彼らは今も一般の市民と同化しながら暮らしています。当時の被害者も表面上は穏やかに暮らしていますが、今でもその家族に深い傷を残しています。サロット・サル(ポル・ポト)のことをカンボジア人に尋ねることは未だに難しいというのが実情です。

ところでこのポルポトがカンボジア内で猛威を振るっていた1975年の日本は首相が佐藤栄作から田中角栄に変わり、「日本列島改造論」に従い全国に高速道路を整備し、地方の工業化を進め、「グリーンピア構想」の元で全国に保養施設を造るために年金保険料から2000億円を拠出することを決定します。全ては地方の活性化を目指したものですが、この結果は皆さんのご存知の通りです。また、アメリカのベトナム戦争を支援しつづけた佐藤首相は、アメリカの核の傘に入ることで日本の非核三原則を守ったという理由でノーベル平和賞を受賞しています。結局、この時期のカンボジアを報道したジャーナリストが国内外にいたにも関わらず、日本の政治家は誰一人としてカンボジア国内の虐殺を止められませんでした。もっとも背後にいた中国政府の責任が大きいでしょう。

この様な歴史をたどり、また皆さんが見聞きした情報などを考え合わせると、この国の人々が今日も尚、絶望的な思いをしているだろうと想像されるでしょう。おかしな話ですが、私は現在のカンボジアの人たちがアジアの中でも最も前向きで明るいと思います。この理由を私なりに考えたのですが、今のカンボジアの社会で忙しく働いている人々の年齢が大変に若く、同時にそうした社会で伝統とかしきたりにとかに縛られず若者を威圧する老人とか序列化した社会も存在せず、自分たち独自の現代的なネットワークを使いのびのびと新しい事業に挑戦しているためなのでしょう。
プノンペンでも平均的な月給は5,000円程です。だからこそ「カンボジアの貧困を救おう」となるのですが、社会全体がこうした状況のとき、そこで暮らしている一人一人が貧乏を意識している訳では必ずしもありません。例え五千円であっても、一部の例外を除いて、家族と協力する中で電気も水道もガスも供給されています。また、都市部の食堂などにテレビは設置されていますが、その前に人々が群がるようなこともありませんので一般の家庭でもテレビは見ているようです。貧しいというのは食事が不自由しない限り、社会の中の相対的な比較でしかありません。ですから特に戦争を身近に知る彼らにとっては、ただ平和な日々を送れるというだけでも十分に幸せで、年を重ねるごとに発展を続ける街を背景に日常的な興奮さえ熱気を帯びているような印象があります。実際様々な市場に店が軒を連ね、市民生活は大変活気に満ちています。よく私はこういった食堂でベトナム式のアイスコーヒーを飲んで過ごしていますが、客を待つバイクの運転手などは昼間から暇を見てはサッカー賭博に興じています。日本で開催しているゲーム等も賭博の対象になっていますから私も日本のサッカーチームの状態を聞かれました。街の様子はベトナムと似ているので、これはフランスの植民地文化の影響なのでしょう。夕方の帰宅する時間帯になるとビヤホールでお酒を飲みながら仲間と食事をする光景もベトナムと共通しています。
しかし交通事情もベトナムそのもので恐らく最悪と言えるでしょう。ベトナム国内も危険であることに変わりはないのですが、交通事故は見た目程には起こりません。カンボジアは見た目もベトナム並みですが、実際に交通事故は相当に頻発しています。信号無視や道路の逆走は日常的に見られる上に、咄嗟に事故を避けるだけの運転技術を持ち合わせていないという印象を受けます。カンボジアでは排気量が100cc未満なら免許を必要としないことも原因でしょう。救急車は普通に来ますし、プノンペンでは病院がないということもありませんが、その設備は十分ではありません。私自身もほとんど即死に近い事故を何度か見ています。バイクのヘルメットも義務化へ向けて、現在過渡期にあります。私はプノンペン市内の移動は自転車を使っています。日本製の中古を4,000円以下で売っています。また、最近はカンボジアに日本のヤマハとスズキが生産ライン工場を持っています。アジアではホンダのバイクが有名ですが、面白く感じるのは同じ中古のホンタでもベトナム製、タイ製、中国製、日本製とあり、それぞれ値段が異なっています。もちろん、一番古く、値段が高いのが日本製です。値段は日本国内と比べて変わらないように思いますが、独特の東南アジアのカラーリングは派手でオシャレなので、むしろ安く感じるでしょう。尚、カンボジアで支払いはアメリカのドルが使えますので、両替も必要ありません。
こういう社会の雰囲気を理解しようと思うなら、例えば昭和25年(1950年)から昭和40年(1965年)ぐらいの日本と大変似ています。映画なら黒澤明の「どですかでん」の時代であり、最近では「三丁目の夕日」の時代です。同じ日本人でもそういう時代を知っている者と知らない若者とではカンボジアの社会から受ける印象は全く異なるように思います。日本の若者たちにとっても一般的なカンボジア人が驚くほど人が良いということに異論はないでしょうが、その上でカンボジアの社会は大変いい加減で不気味に感じられると思います。しかし、日本の昔を肌で知る者にとってカンボジアはただ懐かしい社会なのです。具体的には物乞いは昭和40年(1965年)頃まで日本にもいました。当時は乞食と呼んでおりましたが、昭和23年の軽犯罪法の中で乞食行為を禁止していながら、実際に警察が彼らを取り締まる事はなかったため、東京オリンピックが開かれるまで各地の観光地には「戦傷者」といった札をかけゴザに座る者たちをよく見かけました。社会の体裁が悪いというだけでこれを法律で禁止したのは、今の中国の状況とよく似ています。現在でもホームレスと呼び方を変えただけでそういう方は日本にもいます。ただそうした彼らが通行人にお金をせがむことは法律で禁じているだけのことです。また、「乞食」という言葉は現在放送禁止用語となっておりますが、本来は仏教の中で使われていた言葉です。

日本の戦後でも赤線と呼ばれる置屋は存在しています。そこで働く女性たちは今のカンボジアと同じようにやはり借金をしておりました。ですから、その借金を支払えば身請けができるのも日本と同じシステムです。この赤線が日本で全面的に廃止されたのは昭和33年(1958年)になります。また、売春に関しても現在ですらソープランドなどで行われています。ですから、もし日本人で現在のカンボジアの社会を非常識極まりないなどと表現する者がいたら、単に過去の日本を知らないのです。確かに現在の日本は全てが体裁の良く上品になりましたから、多くの若者にはカンボジアが随分違った世界のように感じるでしょう。しかし、その本質は政治家も含めて戦後の日本とさほど変わりません。多くの日本人はその当時も日本の政治家がなにか胡散臭い事をやっているなという感想を持っていましたが、日々の生活が忙しくそんなことに構う暇もなかったのです。カンボジアの市民たちも現在の政治家の悪口はよく言いますが、やはり家族の生活を優先させています。当時の日本も決して「キレイ」な社会ではなかった訳です。

しかし、これに関して困った問題も生じています。皆さんもご存知の通りカンボジアには世界中からNGOが集まってそれぞれが様々な理屈を述べて活動しています。また民間以外でも政府系の援助が年間200億円近いですし、日本政府はその中の115億円を税金から支出しています。そういった中でこれらのNGOの中には年間収入が1,000億円にも達する団体もいくつかあります。日本国内ではそういった団体を寄付金で支えるといった文化は一般の民間にまで根付いているとは思っていなかったのですが、日本にもいくつか実在するようです。名もない団体も合わせると日本国内だけでもカンボジアの支援団体の数は200はあるでしょう。明らかに過当競争の状況です。そんな中である団体が少しでも寄付を多く集めたいと考え、「置屋で拷問を受けた女の子を見た」と発言した場合、確かにカンボジアで人権に関した教育が徹底されているとは思いませんので、これを否定できる者もいないでしょう。しかし、あたかもそのような拷問がカンボジア国内で一般的に行われていると紹介したとするなら、それは明らかな事実の歪曲になります。
例えば日本国内でもそういった強制売春といった事例は報告されている訳です。日本の暴力団がアジアの女性たちを風俗産業で働かせるといった中でこのような事件も起こっています。しかし、日本国内で同様の募金を募っても恐らくお金は集まりません。と、言うのも日本国内でもそういうケースは特殊で決して一般的ではないことを私たちは知っています。アメリカの国務省の2008年人身売買報告書によると日本も性的目的の人身売買の可能性がある国と名指しされていますから、あえてその事実を否定するつもりもありません。もっとも、アメリカ軍及びアメリカ人がアジアで一体何をやってきたのかを知る者にとって、こうしたアメリカの政府による報告書はブラック・ジョークです。それはともかく、ではそういった事例は実際にカンボジアで年間何件くらい起こっているのか。仮に年間100件にも満たない、さらに状況が確認できて実際に起訴できるのは30件を切る場合はどうですか。人口が1,300万人のカンボジアの社会にとって、これは一般的なケースだと言えるでしょうか。現在、カンボジアの警察により多くの置屋が頻繁に摘発されておりますし、そこで働く者の中には借金で身動き出来ない者がいる一方で、短期間にお金を稼げる手段として自ら希望して置屋で働く者もおります。そういった中でこうした「拷問」が一般的とまでは言えません。

もちろん例え一人であっても看過できないケースもあります。児童買春です。カンボジアの問題と言えるのかは難しいですが、1986年のベトナムのドイモイ政策との関係で1990年代に一万人以上のベトナムの児童が売られていたという報告があります。現在その多くは成人になっていますし、そういった置屋は既に現地の警察によって摘発されています。また、18歳に満たない者との性交は、例えそれが海外であっても日本に帰国後に逮捕されます。これは当然のことのように思いますが、その一方でカンボジアの人たちは16歳以上を成人と考えていたりしますから、なかなか解決には至らないようです。カンボジアでは高校を卒業するのが16歳であるため、当のカンボジア人自身も自分の年齢を勘違いしている者が少なくありません。偽っている訳ではなく自分の生年月日から満年齢を計算できない方がいるようです。

これと同じようにカンボジアでストリートチルドレンを保護する団体もあるのですが、プノンペンでもそういった子供はあまり見かけません。確かに私も何人かを確認していますが、他のアジア諸国と比べて、ことさらカンボジアが多いという印象はありません。もちろん、こうした子供を保護することは大切なことで、実際に多くの孤児院が運営されているために状況が改善しているということもあるでしょう。しかし、そういった子供たちをカンボジアでは頻繁に見かけると宣伝した場合、やはり誇大広告です。私は基本的にこういった活動を応援したいと思っています。しかし、現在のカンボジアのこうした団体の広告は必ずしも事実を反映してはおりません。

以上のようにカンボジアには海外も含めて様々な団体とそれに伴う資金が援助を目的として入っています。その一方でカンボジア人の海外へ留学する者は意外といるのです。元々、ポル・ポトなどもフランスに留学していました。現在日本に来ているカンボジア人だけでも2千人を超えています。その中には私たちの税金を使って留学している者も少なくはありません。ですから、私たちが漠然とカンボジアに対して現代から切り離された社会をイメージしてしまうのはやはり植え付けられた情報に問題があります。また、折角こうして海外に留学した者たちが帰国後に学校などに勤めずに、もっと高い給料を求めてしまい、カンボジア社会に還元されているとは言えません。プノンペンにいると政府系の援助資金はすべて高級公務員のランドクルーザーに変わっているのではないかと誰もが疑うような状況になっています。

もちろん殊に教育に関しては本来カンボジア政府が責任を持つべきであり、その政府ができないから海外のボランティアが助けています。しかし、そのカンボジア政府がどういった国を造ろうと考えているのかといった基本的な姿勢が見えません。現在のところ、カンボジア市民はこの国を資本主義社会だと言っておりますが、政治のトップはベトナムに支援を受けた元クメール・ルージュの幹部たちであり、選挙は行われているものの、果たして明確な政策を持っている政党はあるでしょうか。また、現在のプノンペンには中国から大量の資金が流れていて土地の価格とかは既にバブルの状況にあります。中国本土に貯金出来ない資金がカンボジアに流れているとも聞きますが、これらは中国の官僚たちが国内の汚職で貯めたお金と言う者もいます。現在の世界的な金融危機の中で、カンボジアはある日突然に社会主義に戻る可能性だって捨てきれません。こうした状況下で多くのNGOは逆に政治的な制約なく自由に活動している印象を受けるのですが、当然多くの矛盾を伴います。

例えば皆さんもよくご存知の「学校をつくろう」という団体です。日本だけでも100団体を超えるでしょう。カンボジアの識字率は75%程度ですから教育が大切なことは理解しますが、実際の活動をどのように考えますか。例えば歴史にしても、クメール・ルージュをどう説明するのか、また、カンボジアにとってベトナム、中国、アメリカ、またはフランスはそれぞれ友好国なのか、そうではないのか。さらに学校ではクメール文字を教えるのか、アルファベットを教えた方が良いのか。クメール文字を教えた場合、カンボジアにどの程度のクメール文字で書かれた出版物が存在しているのか、将来クメール文字の出版物が確実に増えるという確証はあるのかといった矛盾はいくつも数え上げられます。また、プノンペンやアンコールワットのあるシェムリアップなどには既に多くの学校がありますので、恐らく学校を地方につくろうと言うのでしょうが、ではどの程度の人口密度に対していくつの学校を必要としているのか、例えば全住民が50名前後の村でもつくらなければならないのか、学校が近くにないからかわいそうと言うなら、では現在の日本の過疎の村の子供たちをどう考えるのか。もちろん、いずれも善意で行っていることですから誰も目くじらを立てることもないでしょう。しかしこのような矛盾を説明できずに学校をつくれますか。

私がこのようなことを疑問に思うのは、カンボジアの人々の生活を見ていて、私自身が現在の彼らをどう捉えるべきかが分からないのです。仮にその政府が国際的にカンボジアをどのように位置づけ、今後どういった方針で国を建設するのかを示せれば、それに沿って学校を運営できるでしょう。しかし、彼ら自身がこのカンボジアはどういった国であるのか見失っているのなら、果たして海外の人々がこの国の子供たちを教育できるでしょうか。現在のカンボジアは仏教国であり、フランスの植民地文化を持ち、一般の市民の生活はベトナムの社会と多くの共通点を持ち、デパートに並ぶ商品はアメリカ製やヨーロッパ製、中国製、韓国製にタイ製であり、中国の投資家とタイやマレーシアの投資家が共存し、ではクメール人とは何者かという答えは過去の遺跡の中にしかないのです。

日本を除いたアジアで使われている一般の携帯電話は、中のシムカードを差し替えるだけで使え、同様に国際電話もかけることができます。その通話料金も日本のものと比べはるかに格安です。シムカードは購入時にパスポートを見せなければなりませんが、1000円(10ドル)程で買えます。タイの携帯はタイ文字を使えますが、カンボジアではクメール文字で書かれた携帯メールを見たことがありません。主に携帯メールは英語を使っているようです。また、コンピューターもウィンドウズにおいてクメール文字を使うことが可能ですが、マイクロソフト社がクメール文字をサポートしている訳ではありません。将来的にサポートされるのかも不明です。確かにプノンペンには最近、いくつかのネットカフェがオープンしていますが、クメール語のホームページが現在どれほどあるのかは疑問です。恐らくこうした店の利用者の大半はやはり英語を使っているものと思います。また、クメール語で書かれた新聞なども存在はしますが、むしろアルファベットを使用したものが多いでしょう。小さな国家の悲哀のようなものを感じますが、国民にとっても、これからカンボジアはコンピューター社会に突入せざるを得ないのですから、クメール文字より、むしろアルファベットの方が重要になるように思います。これと似ている状況を持つのは、インドネシアやマレーシアで使われているマレー語です。マレー語は現在アルファベットを使っていますが、元々はジャウィ文字だったと言われています。一方、クメール文字は東南アジアで独自に使われていた文字の中でも最も古くから使われています。西暦611年の碑文が発見されていることから600年には既に使われていたと言われています。その当時の用途は主にサンスクリット語を表記するためのものでした。実は私は個人的に、このクメール文字がアジアでも最も美しい文字だと思っています。しかし、今後カンボジアが資本主義経済圏でやっていこうと考え、タイの経済に追いつき、マレーシアのように教育環境を一気に加速させようと考えるならアルファベット表記の方が都合が良いことも否めません。
昨年、カンボジアの外国人観光客は200万人を超え、内、日本人観光客は16万人を超えました。現在カンボジアで暮らす日本人も800人を超えています。この数字をどう捉えるかということですが、主に日本人が滞在する都市はプノンペンかシェムリアップに限られますので大変に多いと言えます。プノンペンでもこれと言って目的がない方にとって、一部の観光施設を除き見るべきものがなく退屈してしまいます。そんな中で日本人にとって居心地の良い施設は大変に限られてしまい、また、日本人の好みも似通っておりますので、行きつけの店に行くと同じ日本人に出会います。そういう訳でプノンペンにしても大変狭い村社会のようです。ですから当の本人は望まなくても伝説のように語られている何人かの日本人が存在します。私は海外にいるとき自分から日本人に接触するということもないのですが、狭いカンボジアの中ではそういった噂となっているご本人たちと気楽に会えます。その中にはカンボジアの女性と結婚され家庭をこちらで築いている方も少なからずいるようです。ご自分でご商売をされている方を見ると飲食店がやはり多く、理髪店をお嫁さんにやらせているとか、人を使い印刷所を経営されているといった方々がいます。恐らくそれぞれ決して若い方ではなく、それだけに大変に苦労されているとは思いますが、現実に彼らはカンボジアで生活しています。私は思うのですが、別に「援助」と言った風呂敷を広げなくても、彼らとともに仕事をし、彼らとともにカンボジアでカンボジアの政府の行く末を見届けるだけでも十分にカンボジアの市民の幸せに役立っています。
外国人の援助には限界があることを言いながら、その一方でこういった日本人たちを挙げるまでもなくカンボジアは私たちにとって大変に魅力があるのも事実です。例えば、社会主義のベトナムの社会で外国人が個人で活動するのには様々な制約があります。しかし、カンボジアでは政府の規制もいい加減なら、その分外国人が自由に活動できる可能性ははるかに広がります。カンボジアはアジアでも最低の賃金で人を雇うことが可能です。彼らにとって決して喜ばしいことではありませんが、そもそもカンボジアでは産業がないために、こうした賃金以前に一人でも多くの失業者をなくし定職に就くことが優先されます。また、今、日本国内でも個人が様々な事業に挑戦することが求められていますが、実際に日本で雇用を必要とする事業のための資金を用意できる個人は非常に限られます。その一方でグローバル化が進み、既存の産業が効率化を進めると余剰人員はますます増えていきます。さらに大手企業による市場の寡占も進みますから、こうした個人が従来の産業の分野で活路を見い出すことはできません。仮に今これから既存にはない新しい産業を模索しようと思えば、100名の個人が100通りの試行錯誤に挑戦するより他に活路はありません。しかし今の日本でそうした実験的な事業をやるためには、物価の高さの他に日本国内の消費者の保護を目的とするなどの様々な規制が縦横に張り巡らせられていますから、新しい事業を模索するには向いている環境とは言えません。また、カンボジアと言う国家からみても同様に、カンボジアが従来の産業にこれから進出しても世界の激しい競争に勝つのは難しいでしょう。ですから、カンボジアはこうした新しい試みを規制されることなくやれて、且つこの国の将来も合わせて考えられる個人の日本人にとって、大変、得難い環境を備えていて重要な意味を持っています。
具体的に述べると、シェムリアップにある学校ですが、そこでは観光客がそれぞれが持っている専門的な知識を現地の子供たちに教える先生になってもらうという団体があります。お寺の中に教室を作っているため、学校は必要ありません。教える言語は英語でも日本語でも構わないのですが、観光客が料金を支払ってカンボジアで教師の経験を得ると言う全く新しく既存にはない事業です。実際には私がその料金だけを見ると個人的に高いと感じるのですが、それはともかく旅行者のホテルや食事までを込む料金としていますからツアーとしても既存のものには有りません。ボランティアとしても自身の経歴を得ることに繋がり、従来の寄付金に依存する援助とも一線を画します。このような実験的な試みは一見本来の教育からは外れている印象を受けますが、それを可能にしているのが今のカンボジアです。ですから、カンボジアは現代のような国際化が進む世界を逆手に取って、既存の社会概念に対して様々な挑戦ができる国でもあるのです。

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