アジアンどっとコム・フィリピン_マニラ

フィリピンはマレー系民族から成り、台湾を起源とするオーストロネシア語族に分類されます。三万年前に既に民族が暮らしていたと言われますが、国家をつくらずに部族ごとに別れていました。1521年マゼラン艦隊がフィリピンのセブに立ち寄った際に、セブのマクタン島の首長ラプラプと交戦し、艦長のマゼランは戦死しますが、艦隊の中の一隻がスペインに帰航したことで「地球が丸い」ことを証明します。その後、1565年スペインはセブを占領、1571年マニラを含むフィリピンのほとんどの島を占領します。現在のフィリピン人はメスティーソと呼ばれる混血が9割にも達し、イギリスやフランスの植民地ではこのような高い混血率は見られませんので、ラテン・アメリカの国々と同様にスペインのこうした植民地において極めて不自然な統治を行っていたことが知られています。スペイン人はまず住民を強制的にカトリック教に改宗させ、全ての街に教会を含むスペインの建造物をつくりました。こうしてフィリピンはラテン・アメリカの国々とアジアとの交易の中継地になり、大型帆船マニラ・ガレオン船の建造とともにガレオン貿易で栄えました。また、フィリピンの呼び名は当時のスペイン皇太子フェリペ2世の名前から取っています。国内は一握りのスペイン人の地主が支配し、フィリピン人の小作人にプランテーション農場で労働に明け暮れる生活を強い、19世紀にホセ・リサールなどによる独立運動が盛んとなりました。
1898年スペインはアメリカとの間でキューバの所有権を争い、この時アメリカはフィリピン人の独立運動家らと共に協力して、フィリピンにいたスペイン軍を打ち破ります。1899年アメリカはパリ条約に基づきスペインからフィリピン、グアム、プエルトリコなどを含む太平洋のスペイン植民地を譲り受け、キューバをアメリカの保護国としました。その一方でフィリピンでは初代大統領にフィリピン人のエミリオ・アギナルトが就任しています。ここに来てアメリカは掌を返してフィリピンに侵攻し、これをフィリピン軍が迎え撃ちましたが、この戦いでフィリピン軍の戦死者は20万人から150万人を数え、60万人の一般のフィリピン人がアメリカ軍に殺されました。この時のアメリカ軍の将軍はアメリカ本国のインディアン戦争で名を馳せた指揮官たちであり、アメリカ本土でもインディアンを同じ人間とは認めず、彼らの領土を略奪しています。
1916年になるとアメリカはニカラグアの内乱やパナマの独立に関わる中でフィリピンの自治を認め、1934年にはフィリピンは植民地から自治領に移行しました。
一方、第一次世界大戦の後に中国はヨーロッパ列強の植民地支配から脱し、アメリカ、イギリス、日本が協調する中で、中国は独立国家としての道を歩みます。アメリカとイギリスは従来の植民地支配を中国以外の国では継続したため、日本は中国の権益を失うことを不満に思っていました。日本は満州国樹立に相次ぎ、国連を脱退します。そんな中で1941年アメリカは日本の中国進出に批判する形でイギリス、オランダとともにABCD包囲網を敷き、日本への石油等の資源を全面的にストップさせ、これに呼応する形で日本はアメリカのハワイにある真珠湾を攻撃し、たちまちフィリピンは日米の決戦場と化しました。
フィリピンのアメリカ指揮官はダグラス・マッカーサーです。日本はインドネシアにあった石油資源を確保するためにアジア全土を巻き込んだ戦争へと突き進みます。日本軍は1942年にマニラを陥落、6月までにフィリピンにいたアメリカの全部隊が降伏します。日本軍はフィリピン人ラウレルを大統領にフィリピンを独立させますが、フィリピン市民の支持を得られません。日本にとって、フィリピンはそこにあるアメリカ軍基地を叩くことと、インドネシアからの輸送ルートを確保する以外に戦略的な意味を持ちません。ですから日本政府もフィリピン人に期待したことは、フィリピンに駐留する日本軍に反抗しない政府をつくるだけで良く、そのため他のアジア諸国と比べても真面目な独立政府を作るよう努力しました。しかし、結果的にこのフィリピンの統治がいち早く危機に瀕したのは、フィリピンがアメリカとの決戦場になり、日本が大量の軍隊を送ったため、日本軍がフィリピンの民間人から食料を略奪したことと、この戦争の建前とした大東亜共栄圏という概念がフィリピン人にとっては無意味なものだったことが考えられます。例えばフィリピンはその建国からヨーロッパの勢力によるものです。また、フィリピンの1940年代の輸出入ともその7割をアメリカが占めていましたし、アジア向けのものは20%未満にとどまります。植民地とは言え、彼らは生活においても西欧の文化に日常的に触れていて、一部のフィリピン人はアメリカへ留学もしています。そんな中で一般的な日本人がフィリピン人に対して「西欧かぶれ」と呼び、「アジアへ帰れ」などと説くのですから、その日本人こそ世間知らずと言えますし、実際多くの日本兵は他の世界のことなど知らなかったでしょう。ただ、戦後アジア諸国が独立する中で、現在のフィリピンの経済がタイやマレーシアに大きく追い抜かれてしまったのは、こうした西欧諸国に政治も文化も依存したためにフィリピン人自身の力でそれを発展させることが難しくなっているように思います。この日本によるフィリピンの統治が相当にちぐはぐなものだったと考えられるのは、戦後の1950年代に於いてさえフィリピンのGDPは日本を24%も上回っていたというデータからも伺えます。つまりアメリカの統治下のフィリピンはアジアの中でも決して貧しい国ではなかったのです。そのため、フィリピン人は現在でも、自分の国土を沖縄戦に見られるような日米の決戦の舞台とした当時の日本を加害者として認識しています。

戦火を逃れたマッカーサーはオーストラリアで南西太平洋地域の連合軍最高司令官に就任。1944年頃からアメリカはレイテ沖海戦、フィリピン島作戦で巻き返します。その一方で元フィリピン軍の将校及び農民革命運動家らに武器を供与し、やがてこうしたフィリピン人の勢力は27万人に上りました。アメリカは既にレイテ沖海戦で日本連合艦隊を壊滅状態に追い込んでいて、アメリカの連合軍がルソン島に上陸すると同時にセブ、ミンダナオにも進軍し、1945年8月に日本の全面降伏となりますが、フィリピンでは日本部隊はほとんど原型を留めておらず、またその時の部隊の責任者が最後の一人となっても戦うように指示していたこともあり、一部で戦闘は続けられました。結局、フィリピンでの日本軍の戦死者は33万6千人に上り、そのほとんどが日本からの補給を絶たれたことによる餓死及びマラリアなどの伝染病によるものとされています。この日本の戦死者の数はアジアの全戦線の中でも最多となります。

1945年日本の降伏に伴い、フィリピンはアメリカ領に復帰し、1946年独立を宣言します。その一方でフィリピン政府はアメリカに米軍の駐留権を認め、通商特権など特殊特権を与えました。1974年旧日本軍の命令に基づいて戦後30年間フィリピンのルパング島でたった一人になりながらも戦闘を続けていた日本兵が日本に帰国します。
さて、当時も日本は石油資源を海外に依存していたのですから、その資源を確保できていないのに当の資源の輸出国に戦争を挑んだ時点でその政策が間違っていたことが明らかです。この戦争は日本国民全員の責任だと言っても、国が国民に政策を問うことはなかったのですから、結局、国民に責任の取りようがない訳です。例えば日本政府は日本がアメリカやイギリスと戦争すれば経済的に破綻することを知っていました。当時の軍部なり政治家の中に、その時に放棄すべきだった中国に独占的な利権を持つ者がいたならば、それだけでも特定の私利私欲に基づいて国家を戦争に導いた可能性を疑われるでしょう。日本の中の誰に一体どのような戦略があったのかなどは公開されるべきですし、日本の国民にその責任を転嫁するのも限界があります。そしてその政策を決定した者に責任があるのは当然のことです。敢えて国民が無責任な政治を望んだのであれば、責任は国民にもあるという理屈になりますが、例え一人でも戦闘を続けた兵士がいたように当時の国民が無責任だったとは言えません。

1991年アキノ大統領の時に米軍基地条約の批准を拒否し、1992年に米軍はフィリピンからの撤退を開始します。ところが1995年アメリカとの相互防衛条約が解消された途端に、中国がフィリピンの主張していた南沙諸島の一部に建造物をつくり、2000年にアロヨ大統領が再びアメリカとの軍事演習を再開、2001年のアメリカの同時多発テロに伴い、再びアメリカ軍のフィリピン駐留を承認しました。

実は今、フィリピンの観光客の一位は韓国人の57万人で、宗主国であるアメリカ人を抜いてしまいました。韓国人の多くがフィリピンで何らかのビジネスを展開する者が多く、また語学学習を目的とした若者も増えています。主に飲食店の経営の他、不動産の投資も盛んになっています。恐らく事情は日本の私たちと変わらず、韓国国内の景気がマイナスに転じたため、いち早くASEAN諸国で新しい活路を開こうとしています。やはり英語学校の経営などのシステムの構築の見事さは、なかなか国際化が進まない日本人とは対照的な活躍です。日本人なら経済的に豊かなアメリカやオーストラリアで英語を学ぶことにこだわるところですが、本当に勉強しようと思えば日本国内でもできるということを考えれば、そのようなことは無意味です。

もっとも英語教育の内容だけ見ればシンガポールやマレーシアの方がレベルは高いとも言えるのですが、フィリピンで学ぶメリットはそれを取り巻く社会にあります。まずケーブルテレビのプログラムの内容です。フィリピンでは大抵の宿泊施設で50チャンネル程のケーブルテレビが映りますし、マニラ近辺だとNHKや運が良ければWOWOWを見ることができます。特に映画のチャンネルはほとんどアメリカ国内と変わりませんので、いつでも日本の映画館で上映されている最新作を見れます。また、フィリピンの様々な契約書は基本的にアメリカに準じていて、もちろん全て英語で書かれています。驚くほど私たち外国人にとってハンデがない社会だと言えます。その上で例えあなたが英語を話せなくても、アメリカ人やオーストラリア人のように露骨に困った顔をすることのないフィリピン人は、あなたが楽しみながら英会話をマスターできる格好の相手です。

しかしこのように外国人にとって居心地の良いフィリピンは、紛れもなく現代のグローバル社会である一方、フィリピンの市民には問題も生じています。フィリピンの識字率は94%を誇りますが、実際にはアルファベットで書かれているタガログ語に関してであって英語で書かれた契約書を読める者は恐らく6割程度でしょう。フィリピンでは元々、文字を持たず、1930年代になり公用語として現在のアルファベットを導入しました。タガログ語はマレー語、サンスクリット語にスペイン語と英語の単語が入り交じり、また文法はもっとも複雑な言語のひとつで台湾の先住民の言語との類似を指摘されています。もちろんタガログ語はマニラ近辺の民族が使っていたのでほとんどの住民が日常的に話していますが、セブまで来るとビザヤ語が日常に使われるなどさまざまな地域の言語が今日も使われています。ともかく彼らは英語を日常的に話しておりません。ところが一度マニラのデパートの児童を対象にしたアトラクションを見ていたら、その説明を全て英語で行っている光景を目にしました。お金持ちの集まる上品な場では英語を使用することがステータスになるようです。またテレビではタガログ語に意図的に英語を織り交ぜる「タグリッシュ」を聞くことができます。さらに一般の市民の出生証明書までを英語にしてしまっているのは明らかにグローバル化が行き過ぎています。

現実に多くの家族が子供が生まれた際にこの証明書を役所に提出できないという事態が起きています。よくフィリピンでは書類の偽造問題が取り上げられますが、市民は英語が分からなければ書類が作れないために、これも責任はフィリピン政府にあり、現実に出生証明書がない子供がいる以上、その者がしかるべき年齢になった時点でパスポートなどはどのようにでも作れてしまうのです。

また、2007年にフィリピン人と結婚した日本男性が12,150組に上り、中国人との結婚を追い越しました。日本の中国人観光客は年間100万人を超えたのに対して、フィリピンの観光客はその10分の一にもなりません。日本語の読み書きをマスターするのは当然、中国人の方がはるかに早く、また文法も正確です。一方フィリピン人の日本語の学習は漢字でつまづき、なかなかその先に進めず、話す言葉も文法的に首を傾げるような印象があります。では何故、そのフィリピン人が国際結婚の相手として、中国人と差異を生じないばかりか、ともすればその結果が勝っているのでしょう。

外形的なことを言えば、一般的なフィリピン人はマレー系の民族ですから日本の美人とは随分異なります。もちろんスペイン系のみならず中国系の混血も多いため個人差が大変に大きく様々な美男美女がおりますが、どちらかと言えばそういった美人はアジアと比べたら西欧的な顔立ちに近いでしょう。特に現在の日本人が西欧の人を好むということもありませんので、こうした国際結婚のデータを説明できるものではありません。また、日本の一般男性が英語が得意などということもありません。

そこで考えられるのは、少なくてもフィリピン人が、比較的日本語の読み書きができる中国人と同等かそれ以上のコミュニケーションの能力を持っているということです。彼らの能力は独特です。アジアの中で最も英語が話せる人口が多い国がフィリピンです。どのような田舎へ行っても英語が通じる国は他のアジアにはありません。しかし実際に英語の読み書きまでできる者は6割程度です。ところがそんな彼らのほとんどが英語のヒットソングを字幕に頼らずに歌えます。彼らのカラオケなどを聞いていても半分は英語の曲ですし、かと言って彼らが英語の歌詞を読んでいるのではありません。つまり私たち日本人とは根本的にその学習のやり方が異なっていて、彼らは言葉を聞いて覚えるのです。対照的なことは私たちは彼ら以上の年月をかけて英語を学習しながら英語で満足に会話できないのに対して、例え英語の読み書きができなくても、フィリピン人は私たちより会話の能力が優っているという現実です。つまり日本人の持っている教育に対する優越感は特に語学において根拠がないばかりか、むしろ英語の学習に関しては日本人が彼らから学ぶ立場にあるのです。
2009年の今年、日本とフィリピンの経済連携協定に基づき、インドネシアに続いてフィリピンからも介護士、介護福祉士を受け入れることが厚生労働省の元で決定しました。来日後の3,4年以内に日本語で行われる国家試験に合格することがその要件です。その限りにおいてフィリピン人も日本人と同等の給料を補償しています。しかし本当に介護を必要としている方々が、介護士に日本語の読み書きが出来ることを求めていますか。何故、高い人件費と高い教育費をかけるのですか。例えば国際社会の中でフィリピンの介護士たちは既に多くの実績を得ていてアメリカ、カナダ、オーストラリア、中近東、マレーシア、シンガポール、香港といたるところで活躍しています。そんな彼らに改めて日本の病院で働きながら日本語の読み書きを三年でマスターさせようと言うのです。

これを諸外国にならって受け入れた場合、外国語を話すことは他のどの国よりも早くマスターしてしまうフィリピン人を、フィリピン国内の何倍かの給料で雇うことで日本国内で追いつかなくなった雇用を確保します。それでも日本人と比べたら安い給料ですが、安定的に雇用が確保でき、国家の福祉の底辺が支えられます。しかし、どうしてもそうした外国人の介護が不満だと言う方やもっときめ細かな介護を望む方には多少高い値段になっても日本の介護士にやってもらう。こうして特定の介護を日本人に限定する場合、福祉にサービスを加えた形になるので現在の介護士の給与も引き上げることができます。海外ではそうしています。

一方、日本のやり方では、フィリピン人はアジアの中でも使い道のない日本語の読み書きを半ば強制されて学ばなければならない上、現実に給与が低過ぎて生活に支障を来している日本の介護士の問題はそのままです。さらに日本国民は際限なくこれを実施する関連団体に税金をつぎ込まなければならず、そうしない限り福祉としての介護は成り立たない状況を迎えます。国際社会の中で既に英語をマスターしている者に改めて日本語の試験を義務づけるというのは極めて独創的です。例えば香港で働く外国人に中国語の筆記試験をやらせたり、中近東の外国人にアラビア語の筆記試験をやらせることを考えてみれば分かります。どうしても日本語の筆記能力にこだわるのであれば、中国人や韓国人の方がはるかにその目的に合っています。

このシステムに問題があるのは、全てを国が一律に規定を設けることで実際に介護を受ける者も、そのための税金を支払う者からも選択肢を奪っています。また、既に国際的に認められているフィリピン人の評価を日本独自のやり方で改めることは日本が国際社会の中で協調できないことを表しています。学ばなければならない立場にあるのは彼らを受け入れる日本側である上に、現実に破綻しているのは日本の財政だと言うことです。なぜ日本の戦時中の同化政策を思い出させるようなことを強制するのですか。普通に考えて、結果的に多くのフィリピンの介護士たちが再び帰国せざるを得ないことになりますが、敢えてこのシステムを実行した場合の責任者と、その者が主張したこのシステムにおける具体的な戦略を明確にし、改めて日本国民に問わない限り、戦争中の日本と同様に誰一人としてこの責任など取れません。

最終的に日本人と同様の給料を支払うのであれば、特にフィリピン人やインドネシア人に限定する理由はどこにあるのか。国民の税金を使い働きながら日本語を学習できるのであれば、例えヨーロッパの方でも希望者はいるのです。また、敢えてそのような試験を漢字圏ではないフィリピン人に課す意味はどこにあるのか。皆さんの中にこれを説明できる方がどの程度いるのでしょう。税金を投入して日本独自のシステムを創ったのであれば、社会保険庁のようなことを繰り返し、国家の財政を破綻させないためにも、これらの関連団体には当然、説明責任があります。
先にフィリピンがスペイン人及び中国人との混血の割合が9割に達することをお話しいたしましたが、そんな中で一握りの人間がフィリピンの広大な土地を支配しています。これはラテン・アメリカなどとも共通していて、こうした支配層は現在でもスペイン人の純血といったものに強いこだわりを持ち、また、社会もよりスペイン人の血統が強い者が優遇される傾向を持っています。このような社会の典型としてプランテーション農業が挙げられ、地主たちは小作人を使って、常に外貨を稼げる輸出できる商品作物を作らせ、国内は主食の米を輸入しているために価格が高騰し、常に飢餓状態を招いています。

こうしたスペイン系で有名な財閥にはアヤラ財閥などがありますが、フィリピンの経済界の特殊性として多くの中華系が支配しています。ロビンソングルーブはゴコンウェイ財閥、SMデパートのシー財閥、サンミゲールビールのコファンコ財閥などです。ラテン・アメリカ諸国と比べても、こうした特殊な財閥を除いたら、フィリピンは市民生活の上では人種を差別しない社会です。またそもそも純血にこだわるのは一部の財閥出身者のみで、むしろアジアの中でも最も他民族と交わることに抵抗がない社会だと言えるでしょう。一方こうした経済界の特徴としては財閥同士が相互に緊密に繋がっていることが指摘され、こういった社交の場としてロビイストが活躍するのはアメリカ社会と同様です。

ところでラテン・アメリカ諸国でアメリカが直接植民地支配していないにも関わらずアメリカが忌み嫌われているのも、こうしたプランテーション農業を支えているのがアメリカの資本だと考えられているからです。フィリピンではこのようなアメリカに対する憎悪といったものは南部のミンダナオ島を除いては表面化しておりませんが、実際の政治でもアメリカの支配を指摘する者は少なくありません。先のマッカーサー司令官がフィリピンに莫大な資産を築いていたことを例に挙げなくても、最近のマルコス大統領の回収できた不正な蓄財が850億円にも上ることなどから、政治がアメリカ資本の影響を受けていることは否定できません。また同じ時期に日本の田中角栄がロッキード事件で有罪になるなど日本もまた例外ではありません。またこの一連の裁判に於いて日本でもフィリピンでもアメリカ本国へ捜査が及ぶ時点で共に謎の死亡者が出るなどして解明に至っていないことも共通しています。こうしたアメリカの政財界による間接支配の実態は、一般の私たちでは把握できないのが現状です。また、当のアメリカの農業は世界の主要穀物の商品化に成功しており、小麦とトウモロコシが共に世界第一位、米が世界第三位の輸出大国となっていて、日本の農業が「減反」など補助金で農家を縛り、もはや国民の税金で支えなければ存続さえ難しくなっている現状と対照的です。日本の政治は既にグローバル企業の金融システムの中に組み入れられていて、今後は食料さえもアメリカに依存して行かざるを得ません
このようにフィリピンでは社会の上層部が結束しているために一般の市民が常に貧困に喘いでいるといった批判を受け、一部に農地解放などの政策も行われたことがあるようですが、その時にわずかなお金を必要とする多くの者たちが分配され受け取った土地を再び地主に売り払い、結局何も変わりませんでした。このことから元々、領土といった概念もない社会に生きた彼らには土地を所有する欲求も少ないことが分かりますし、地方の人の良さとフィリピン人の持つ不思議な連帯感も古来の共同社会を背景にしているようです。またその一握りに過ぎない地主にしても、その土地に暮らす人々に生活に必要な資金を貸すなどしているため、私たちが想像するような存在とも異なり、福祉的な一面も担っています。こうしたフィリピンの支配者による階層社会はヨーロッパの外来文化であり、本来は住民間の差別のない共同社会であったと考えられます。有名な話として「エドゥサ革命」があり、マルコス大統領が独裁政権を目論んだ際に立ち上がった市民を前に、道路を封鎖していた軍は一発の銃弾を発射することなく市民に道を開けました。このように全てのフィリピンの市民が一体となることがあります。

この助け合う一体感を持つ社会の対局にあるのが、マニラに代表される治安の悪さです。この治安の悪化は恐らく銃を規制するだけでも相当に改善されます。フィリピンの貧しい階層の者たちは銃を所有しておりませんし、資産家の自宅には必ず銃があります。ですから、フィリピンの市民は企業家といった社会の体制側にいる人間を必要以上に恐れていて、また銀行なども一般の市民は保証金がなければ口座を開くこともできないように企業と顧客である市民の立場が逆転しています。

フィリピンはラテン・アメリカ諸国と同様にカトリックを信仰していることが有名ですが、治安はラテン・アメリカにも劣ります。特にフィリピンのマニラの出身者が平気で嘘を言うことは、もはや周辺諸国の人さえもが知っています。なぜ、一般に厳格だと言われているカトリックの社会にも関わらず、アメリカの支配下でこうした一面を持つのかですが、元々アメリカも土地所有の概念を持たないインディアンに対して様々な契約書を作り上げ、それを根拠に土地を略奪しました。よく彼らが自由を口にしますが、アメリカ国内の銃の規制問題でも分かるように、本来は「力のない者に自由はない」といった最大限、力を信じている社会です。こうした力を持つ支配者によるアメリカ型資本主義の元で本来の宗教が無力化しているとも考えられます。
フィリピンにいる日本人の長期滞在者は1万4千人、2007年のフィリピン日本人旅行者は42万人に上ります。日本の企業は550社が進出していますので、現地企業の管理職といった方も多いでしょうが、その一方で、明らかにフィリピンの滞在者にはある傾向が見られます。すぐに思い起こされるのは、1980年代の興行ビザに伴う歌手やダンサーなどのエンターティナーの来日との関係です。興行ビザで6ヶ月間日本に滞在できたのですが、実際はその多くがキャバレーなどの接客業で働き、その後日本中にフィリピンパブが開店し、当時は年間8万人のフィリピン女性が来日していました。ところが2004年アメリカの国務省が「人身売買報告書」の中でこうした海外の若い女性の受け入れに関し、日本を「人身売買容認国」と名指ししたため、慌てた日本政府は即座に興行ビザを廃止します。結果として国内のフィリピンパブはほとんどが閉店に追い込まれます。この報告書で連想されるのは日本の暴力団関係者ですが、1980年代に日本の興行ビザの発行の際に現地のフィリピンでプロモーターとして多くの女性タレントを育て、日本に送る際にその契約金で潤っていたようです。こうした日本人に限らなくても、一攫千金の不動産投資事業に邁進しているアメリカ人、オーストラリア人、韓国人、中華系のマレーシア人など何処となくヤマっ気が多いように思います。日本の個人の方でも、妙に商売っ気があり、フィリピン関係のホームページを検索してみても、ビジネスに慣れた手際の良さを感じます。

このアメリカの報告書に関して、確かにフィリピンパブはアメリカの国内では見られませんが、皆さんもご存知のアジアに見られるゴーゴーバーは明らかにアメリカ軍関係者のための施設です。また、沖縄を例に出すまでもなく、こうしたアジアの国々でアメリカ軍による暴行事件が後を絶ちません。現地の警察が逮捕しても「米軍特権の地位協定」を元にアメリカ軍に引き渡す他になく、現地の記録に残らないようになっています。基地周辺には多くの年金で暮らすアメリカの退役軍人とゴーゴーバーを経営するオーストラリア人が住み着いていますが、このオーストラリア人にしても1970年代までは白豪主義と呼ばれるアジア人を差別する移民政策を取っていましたし、老いたアメリカ人の多くが未だに人種的偏見を拭い去ることができていません。当然、アジアの女性のオークション会場と呼べるようなこのゴーゴーバーはアメリカにもオーストラリアにも有りません。

とにかく、こうした投資家を引きつけるフィリピン社会はそれだけビジネスの環境が整っていると言うこともできますが、悪く言えばお金があれば何でも出来てしまうとも言えますし、それなりのノウハウを持ち合わせていないと彼らと渡り合うことは厳しいだろうと想像します。もし腰を据えてやる覚悟があれば、サリサリストアーに代表されるモンキービジネスと言われる社会の底辺で商売などをしながら、この社会を学ぶのも面白いでしょう。意外なところでは、これだけ事業に慣れた世界の投資家が集まりながら、ユースホステルなどの公共施設は大変に貧弱なので、そういう施設の運営も可能です。ビジネスに興味がない方でも、アメリカにいてもアメリカ社会の実態はなかなか見えてこないように、フィリピンから日本やアメリカを眺めて見ることはあなたにとっても大変に意義あることと思います。
フィリピンの素晴らしさは社会に制約されずに個人的な付き合いを深めることができることにあります。友人の関係でも恋人の関係においてもあなたが外国人であることを意識せずに一人の人間として評価を受けることになります。要するに日々の生活を決定しているあなたの価値観がこの国では問われます。もちろんフィリピンを嫌う方も少なくありません。フィリピン人が海外の人に嫌われる理由として、相手の優しさを利用して陥れることが挙げられます。敢えて弁護すればフィリピン社会全般に個人差が大変に大きく、その中でもマニラには正直者と犯罪者、または聖職者とマフィアが同居します。ですから観光などの目的で始めから深入りする気がない場合、特にマニラは避けた方が良いかも知れません。結果として、フィリピンにまるで興味を失う人と、例え結婚してでもフィリピンの社会で暮らすことを決意する人とに分かれるようです。結局、あなたがこの国を選んだというよりも、フィリピンの一人一人がそういった旅行者を選んでいるように感じます。日頃から組織の中にいて個人で物事を決定する機会が少ない日本人にはこういった社会が新鮮に映りますが、特に縁がなければ敢えて無理をせずに他の国へ行くのも正しい選択でしょう。
日本に滞在しているフィリピン人は20万人と大変な数に上ります。フィリピン人は勤勉であることを大切にしている日本人とは全く異なりますが、そんな彼らを今、日本の社会が必要としてます。彼らの優しさはあなたが全てを失った時に初めて分かります。また、日本に滞在しているフィリピン人は犯罪率も離婚率も決して高くはなく、フィリピン本国にいるとき以上に真面目に暮らしていることも付け加えておきます。

尚、マニラのスコッターの様子はコチラをご覧下さい。


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